2014年10月13日

通学路で見っけたお宝とは?

健康と子供達の安全登校を願い、子供達にやっとついていける
だけの、見守り隊ならぬ見守られ隊だけど、休まず往復40分の
距離を歩いている。
 そんな毎日の道で、ちょつといいものをみつけました。
 川で洗濯をしているとドンブラコ、ドンブラコと流れてきた
大きな桃を拾い上げて、家に持って帰り切って見たら、あーらビックリ
かわいい男の子がでてきました。で始まる童話『もも太郎』その桃が
今は空き家になっている、旧家の木製の塀の上にあります。ユニークですね
 
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道路を挟んでお向かいにの門には お城の天守で見かける、すがたは魚で
頭は虎で尾ひれは常に天を向いている架空の動物、鯱が1対飾られている
鬼瓦と同様に、家の守り神として、火災の際には水を噴き出して、
火を消すと言われているが、一般家庭で見るのは珍しい
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また、軒先にも、神社の守護神狛犬が、1対飾られている
この狛犬と鯱は同材料の越前の赤土で造られている。
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この門構えのお宅、由緒ある家柄のようにお見受けしていました
実はこのお宅、全国で最初にできた辞書、父谷口松軒と息子安定が共に編集して
明治22年に東京で発行した。漢字のあて字辞書『魁本大字類苑』の著者 谷口安定の
母の実家でした。
 安定は、天保9年(1838)本多家の家臣であった松軒の子として屋敷内で誕生した
 安政6年(1859)江戸の若山塾に学び、2年後には越前に戻り、松井耕雪が創設した
藩校「立教館」の教師を勤めている。
しかし、明治3年の「武生騒動」に参加して福井の牢獄に入牢されるが、
6ヶ月後の明治5年、進脩小学校(武生東小学校の前身)に勤め
明治6年、初代校長に就任している
明治22年安定は父松軒と共に編集した『魁本大字類苑』(かいほんだいじるいえん)を発行した。
このように、全国的にレベルの高い辞書が武生の地で編集されたことは、この地が江戸時代
から学問が盛んであった事の証明である。
 また、藩校「立教館」からは、多方面にわたり優れた人材を排出し、
日本の近代国家へ向う一端を担っていた。
posted by 和姫 at 02:24| Comment(0) | 歴史的遺産

2014年08月03日

帆山町お地蔵まつり

「おさいせんお願いします」炎天下のなか
子供達が、通行人、通行車両に向いお賽銭をお願いする
この行事は、昔から行われているもので、10年前までは小学1年
から中学1年の男子だけで行われていた。
中学1年生が大将となり、地蔵さまへのお供え物、低学年の面倒から、
賽銭のおあがりの分配まで、すべて子供に任され運営され
タテの関係がうまく保たれいた。
しかし、近年の交通量の多いこともあり、親の管理下で行われる様になり、
子供の祭りへの関心も薄らいできている。
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このお地蔵さまは、県道ができるまでは、味真野へ至る、山道に
建てられていたもので、旅人の休憩場、道しるべとして、利用され
旅の安全を願い建てられたようだ
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posted by 和姫 at 23:50| Comment(0) | 伝統行事

2014年06月09日

越前市に残る本地仏、第一級品「荒谷観音立像」

写真でみて是非拝観したい、素朴な中に清楚な雰囲気を
漂わせている、観音立像が越前市にある。区長さまのご厚意により
その思いが叶えられた。

 泰澄大師が福井県内に開いた霊山のなかで、特に崇高な越前五山(文殊山・日野山・越知山・吉野ヶ岳・白山)の一つに数えられる日野山。その秀麗な姿は越前富士と親しまれ、紫式部や松尾芭蕉など多くの歌人に詠まれ愛されてきた。日野山は別名、雛が嶽、お嶽山と呼ばれ、神体山として仰がれ、継体天皇が崇拝され、醍醐天皇延喜10年(910年)9月5日『日本記略』には授越前国日野明神従五位下と見え、国内神名帳には従一位日野大明神とある。

標高794mその北麓に、荒谷町がある。
荒谷登山道は。数ある登山道のなかで、風光明媚で起伏に富み、
旧跡が残されているなど、登山者にもっとも愛されているコースである。
この登山道登り口に、日野神社と観音堂がある。
観音堂は享保6年(1721)の『鯖江藩寺社改帳』には「氏神観音堂 長6尺2寸 泰澄大師作
3間四面」とあるが、明治12年の『神社明細帳』には「二の宮」と記されている。
明治41年8月7日には二宮神社が日野神社に合祀、合併している
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また、荒谷町の西隣西谷町には「一の宮」があり、10世紀後半の作と言われている
薬師如来坐像が安置され、荒谷町の北隣岩内町「三の宮」には、12世紀代の作と言われている
阿弥陀如来座像と聖観音菩薩が安置されている。
この「一の宮、二の宮、三の宮」の三社は、日野山山頂に祀られている、日野山日野権現の下宮として
置かれていたようで、この三社の仏像は神仏融合のなかから生まれた本地仏とみなされている
毎年例大祭には、この三町内の役員が山頂で篝火を焚き、夜通し御神体を守っている

荒谷町観音立像は県指定文化財になっている。
総高201cm、冠から天衣・持物・蓮台まで桂材の一木から彫られ、
像は、やや右側に傾き、各所に墨書描きが多く用いられ、前面に淡赤色が施されている
左手の五指をまるめて、未敷蓮華の茎を握り、右手は胸前で掌を内側に向けて立て
第一と三指を捻じて蓮に添えられ、その他の指は伸ばしている
未敷蓮華は、悟りをひらく途中の姿だと、学芸員の説明があった
ならば観音さまは、現在もこの地で、我々衆生をいつでも受け入れ、
慈悲の心で、救済し、仏の世界へ導いてくださっている、大きな存在である
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同じ地区に居て、神仏に対しての信仰心の違いに驚かされた、今も観音立像は、
偉大な山懐に抱かれ、脈々と信仰心厚い、村々の人たちによって、大切に守られている
と共に、小さな集落にすぎないこの地が、当時いかに栄えていたかが想像できる

posted by 和姫 at 04:23| Comment(0) | 史蹟・神社 仏閣

2014年06月05日

なつかしい「ほうばめし」作ってみませんか

飛騨高山地方では、乾燥させた葉の上に、味噌と食材をつつみ
焼いて食べる、郷土料理として全国にしられているが
越前市では、大きなほうばの葉に、ご飯にきな粉をまぶし
包んだだけのシンプルな食べ方をする
ほうばの香りが、ご飯に程良くなじみ、おいしく昔なつかしい

田植えの頃の、休憩のおやつとしてたべられていたが、
最近の農業は機械化が進み、田植仕事は人手がいらず
きれいな緑の苗が、またたくまに植えられていき、
あぜ道で一服している、風景を見ることはない

この季節になると、ほうばめしが懐かしく、店頭で
10枚200円で売られていた葉を買いさっそく作ってみた
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@ほうの葉を十字に置き、砂糖、塩少々入れ、味付けしたきな粉を葉の上にのせる
Aきな粉の上に、炊きたての熱いご飯をのせて、もう一度その上にきな粉をかけて
 手早く包み、ゴム輪で止める
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B包んだほう葉めしを、熱いうちに、ハッポースチロールに入れ、軽く重石をしておく
 これででき上がりです、簡単にできるでしょ
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(注)熱いご飯を入れないと、ほう葉の香りがご飯にうつらない
   葉が茶色に変色すればよい
   きな粉がしっとりとご飯になじむ様に多めにかける 朝作れば昼には食べられる

   なかの食材を変えて、アイデアを凝らしてつくると、若い人達に好まれると思います
   
   
   
タグ:郷土料理 
posted by 和姫 at 01:03| Comment(0) | 料理

2014年06月02日

越前市桧尾谷町に残る 鞍谷氏の供養塔

越前市街地から、車で15分、魚見坂を経由して池田町に至る、桧尾谷町の道路沿いに
「ここから700m、鞍谷氏供養塔」の看板をみっけ、山に向かい車を走らせる
この地の小字名は「陵(みささぎ)」と呼ばれ、丘陵であった
 鞍谷氏供養と伝えられているものは、笏谷石製の七重塔で、すでに相輪から上部はなく
高さ約230cmで、装飾紋様や銘文、種子は一切認められない。
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 京より越前に下向した、室町3代将軍足利義満の孫嗣俊は、鞍谷氏を名乗り、
足利将軍家の流れをくむとして御所号を許され、鞍谷御所と称し、現在の味真野神社に
居住していた。鞍谷氏は嗣俊、嗣時、嗣知の3代にわた150年間この地を支配していたと
伝えられている。

最近の説によると、室町時代後期には、越前に勢力をもっていた朝倉氏が、
文明18年(1486)斯波義俊を越前守護に迎え 鞍谷氏の
娘との婚姻関係を結ばせ、鞍谷氏を相続させたといわれている。、
天正3年(1575)朝倉氏滅亡後は、小丸城を築城した織田信長の家臣、府中3人衆の
ひとり佐々成政に従ったと伝えられている。

池泉町には、館跡があり、武衛山には居城跡が残されている。供養塔北側の
「石山はずれ」と呼ばれるところには、鞍谷氏の菩提寺真言宗慈雲寺があったが
天正3年8月、織田信長の一揆侵攻で滝川一盛の兵に焼き払われたと伝えられている





posted by 和姫 at 21:33| Comment(0) | 歴史的遺産

2014年05月05日

コウノトリの舞う、越前市を夢見て

生き物と共生できる豊な環境を目指し、コウノトリが舞う里山里地づくり
構想が始められたのは、3年前の平成11年6月。
生物の自然再生と位置づけ、本市にゆかりの深い
コウノトリふっくんとさっちゃんが、
白山地区中野町に、二十四時間体制の監視カメラに守られ、
飼育されている。昨年につづき、今年も5月19日、2ヶの産卵が確認された。
昨年生んだ卵はすべて無精卵だったが、飼育から3年目の今年
雛が誕生するか期待が寄せられている。

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     川を挟んで右側の堤防は、徒歩でのコウノトリ見学が許可されている
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     飼育ゲ―ジに面した堤防は全面通行止め、約200m先に飼育ゲージがある
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     田んぼの真ん中に飼育ゲージが造られ、コウノトリを肉眼ではっきり見ることはできない
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     平成26年4月6日撮影  産卵前で見学者は誰もいない
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今年に入り、コウノトリの飛来は嶺南、嶺北で、その美しいすがた
が目撃されている。
生物を取り巻く環境は、厳しい時代へ来ているが、
コウノトリが田んぼで餌をついばむ姿は、
福井県の自然環境が、侵かされていないことを示している。、
これからも自然を大切に、人間と生物が共生できる、豊かな環境づくりを目指し
この事業が、良い成果が出ることを期待している

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我が家にも、コウノトリが3羽飛来してきました
友人が作った、竹に飛んできたコウノトリの羽先は、
細かい竹が並べられ、黒く塗られて
コウノトリの特徴をよく表している
「幸せを運ぶコウノトリ」と象徴されている
コウノトリは、私たち夫婦にも幸せを運んでくれました。
現在、男ばかり7人の孫たちのなかに
初春、8年ぶりに、8番目にして、待望の女の孫が誕生しました。
目の大きい、主人の小さい頃にそっくりで、
かわいくて、かわいくてメロメロです
小さな命の誕生は、大きな喜びと共に、元気を与えてくれています




posted by 和姫 at 00:59| Comment(0) | 歴女日記

2014年04月29日

峨山道巡行交流会に参加して

今年で50回をむかえる、峨山道巡行を記念して、
前日に行われる、交流会に出席するため午前9時福井を出発、
途中、のと里山街道のパーキング西山で、ちょっと早い昼食
、迷った末、お店のおすすめ海鮮丼に決めた。
手ごろな値段の割に、味は上々、女3人でゆっくり食事を楽しんだ
ここから車で走って、門前までは30分、みておけばいいかな〜  
バッチリでした12時30分、交流館に着いた

禅の里交流館を1時30分マイクロバスに乗り
総持寺祖院から史蹟めぐりに出発
まず、門前にある「観音堂縁記」から転写した、瑩山禅師の筆による
「能登櫛比庄」の文字。細い線を見ていると、瑩山禅師の優しい人間性が見えてきます、

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峨山禅師以後、総持寺では「住持輪番制」がひかれ、輪番住職が交代する時は、長谷の湊で
下船して、黒島近くの海鮮問屋を営む総持寺御用の船鑑札をもっていた森岡家で身を整え
行列を作り総持寺へ上堂したという。
その受け渡しの法要が厳修された後に、披露の宴で歌われたのが「とろろ節」であった
「ドン、ドン、ドン」太鼓の音で始まる「門前とどろ」は、喜びと安堵を込めた宗教的意味を
含めお囃子「善哉 善哉」は仏教用語で「よいかな」の意で
諸願満足、円融円満の意味が込められている

この唄の一節にある「能登の門前すじかい橋を、死なぬ一期にハア渡りたい」
すじかい橋は、今の山門から200m離れた、総持寺総門跡地あたりにある。
ここで馬を降り、長い参道を歩き寺に入った。
総門跡地には、文化5年(1808)の石字経王塚と法身舎利塔元禄2年(1690)が
建つている。いかに総持寺が広大であったかが分かる
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           昔はここから山門まで約200mあった、遠くに総持寺祖院が見える

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祖院三松関前に「従是禅定石五町(コレヨリゼンジョウセキゴチョ)」の道標が立っている
能登は桜の満開を迎えていた、桜のトンネルをくぐり、和田山山頂には
瑩山禅師と峨山禅師が坐禅をしたという坐禅石がある。
ここからは、総持寺祖院や門前の町並が見え、西の方向には日本海がみえる
「瑩峨御両尊」はここに坐り何を語ったのだろうか、静けさのなかで、何を
夢見ていたのだろうか。全国に正伝の仏法を伝え、人々の幸せを祈り、
人間とは何か、模索しつづけていたのではないだろうか、
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総持寺祖院から約3キロ、トンネルを抜けると鹿磯区にでる、ここに「長谷観音堂」がある
能登地震で港の先端にあったお堂は、新らしくなり高台に移転されている
以前、何度かこの地に、観音さまを訪ね来たが、会えることはなかったが
長年の思いがやっと叶い、参拝することができた。
信仰心厚い地元の人たちによって守られている。今回、堂を守っているおばあさんにお会いした
一途に観音さまを慕い、観音さまと共に生きている、篤い思いが伝わり
信仰の本当のすがたを見た思いがした
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堂内には 高さ80cm、経40cmの丸太を切りぬき観音さまが彫られ、
その両側には狛犬が置かれている。桃山時代の作と言われ、疑灰岩でできている。
なんともいえないエキゾチックな顔をしている

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当時の能登半島は、海から入ってくる、豊かな経済に支えられ、格調高い
文化が香る、開かれた土地であった。
この能登の地に、禅苑を開いた瑩山禅師の教えも、また、海の交通を利用して
全国に伝播していき、生きがいを失くした、多くの人たちに希望を与えてくれた
鹿磯の観音さまは、港に出入する船の安全を祈り土地の人たちに温かく守られている。
3月18日には大祭が行われ、総持寺祖院から、監院が出向き法要が営まれるなど
総持寺と観音さまは深い関係があるようだ


posted by 和姫 at 23:18| Comment(0) | 福井県外編