2014年11月03日

光に導かれ、南越前町糠円光寺へお参り

一雨ごとに寒くなってきました。里の山々も色づき始めました
お元気ですか。
昼から、永代供養の法要がおこなわれるということで
南条郡南越前町糠・円光寺へお参りに行きました。
この寺の創建は678年と古く、お御堂へ入ると寺の歴史を感じます。
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天台僧 真盛は全国各地で布教を勤めたが、長享2年(1488)
八月越前府中に立ち寄り、引接寺を創建していることから
この頃、円光寺も真盛上人に帰依し、天台宗真盛派となり
近隣の村々の人たちから篤く信仰されていた。
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今日も、お参りの人の多くは、老若婦人が多いが、土地柄で男性は海に
出て漁をして生活をしているので、女性のお参りがほとんどだという
お参りの多くは、近隣、村内の人達が大半で、村外からの参拝者はいない
今も、村の団結心は堅く、きちんと守られている。
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境内の入り口には、笏谷石製の六地蔵が祀られ、その中央には延命地蔵が安置
され、その基盤3面には「明暦3年2月(1657)」「・・和尚位」の陰刻銘文がある。
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本堂前には、花崗岩製の総高(約4m)の宝篋印塔がある。塔身4面には金剛界4仏の
種子を刻み、基盤石には多くの戒名と共に「願主・敦賀真禅寺 真□上人/當寺良戒和尚
納軽 祖玄法師」とあり、塔身下台背面には「干時 弘化二年七月日建為(1845)」などある。
また境内には、経塔1基が横倒しに寝かせている。
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墓地中央に笏谷石製三重塔がある。また墓地内には、笏谷石の欠損品が残されている。、
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古い寺には、必ず歴史的な石塔、石仏が残されている。しかし、割れたり、倒れたり

その価値をわからずに無残に放置され、捨てられるものが多い。

特に、福井県の場合、神社や寺には、材質が柔らかく細工がしやすい
足羽山で採掘された、笏谷石が多く使われ、残されている。

しかし、平成11年の笏谷石採掘の中止は、再び石造物として笏谷石が蘇ることはない。

既存の品を大切にしてほしいと願っています。

posted by 和姫 at 23:33| Comment(0) | 史蹟・神社 仏閣

『越前瑩山禅師ものがたり』見聞録A 瑩山禅師御誕生仏

この本に掲載した写真は、7年の年月をかけて、1部の資料を除き
現地へ出向き撮影したもので、私にとってすべてが懐かしく、
当時の思いがよみがえってくる。
 本の中には、240枚の写真を掲載してあるが、それほど多いと感じないが、
思えばそれの 何倍も何十倍も撮っていたことになる 驚きだ。

瑩山禅師御誕生仏
 曹洞宗総持寺開祖瑩山禅師のお母さんが祈願に訪れた、多禰の観音堂は、
当時村国山の中復に、建立されていた。創建当時、峰には松柏が青々と茂り、麓には
洪々として深淵が広がり、浄土を思わせる霊地であつたという。
その後、織田信長の戦火にあい、現在地、越前住吉町に移転している。
 この誕生仏は、宝物殿に保管されている物を、わざわざ見せていただきました、
涼やかなお顔の誕生仏です。

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帆山町瑩山禅師石碑に寄り添うように立てられている.
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瑩山禅師の慈母「孝養の碑」
posted by 和姫 at 01:48| Comment(0) | 地方・郷土史

2014年10月30日

神々の宿る山/越前市のシンボル日野山

今日もいい天気になりそうです。通学路正面に朝霧に包まれた
日野山が雄大に聳えています
越前市と南越前町にまたがり、標高795m、養老2年(718)泰澄大師によって開かれ霊山で、越前五山(文殊山・日野山・越智山・吉野ヶ岳、白山)の一山に数えられ、その秀麗なすがたは越前富士と親しまれている。
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雄大なすがたに、多くの人たちが歌を詠んでいる。日野山を詠んだ代表的な作品

越前守に任命された父為時伴われ、越前で一冬を過ごした紫式部は
「暦に、初雪ふると書きつけたる日、目に近き日野嶽という山の雪、いと深う見やるれば、古ゝにかく、日野の杉むら埋る雪、小塩の松に 今日やまがえる」

松尾芭蕉は奥の細道の道中、元禄2年(1689)8月14日、福井から越前市に歩みを進め、加賀の白山が見えなくなり、日野山が見えてくると、明日、敦賀で開かれる十五夜の月見の句会で満月が見えることを願い、日野山をみて占った「明日の月 雨占わん 雛が嶽」。しかし芭蕉の気持ちに反して、敦賀での句会は雨であった。

福井藩16代藩主 松平春嶽(慶永)公
「雲はれて仰ぐも高き日永嶽 みどり匂へる春日影かな」

武生市民憲章 昭和56年制定
  わたしたちは、日野の峰のように 高い理想をいだき 豊かな未来をきずきます

北日野小学校校歌 昭和15年制定 (私の住む地区)
  とよさか昇る 朝日この 御岳の峰に出づるとき 
  我が北日野は 野に山に 望みの光をどるかな

日野山は、いろいろに読み方でよまれている。(山々のルーツ調べ)
貞享2年(1685)越前絵図記「日野ヶ嶽」「「小健(おだけ)山」
正徳2年(1712)帰雁記「日野山」「御嶽(おだけ)」
享保2年(1717)足羽社記「日野山」「小健山」「小嶽(おだけ)」「比奈我他気(ひながたけ)」
天文3年(1738)越前名勝志「小岳(おだけ)山」「日永(ひなが)岳」
          味真野名勝志「日野山」「小健山」「雛(ひな)ヶ岳」

日野山の祭神は欽明天皇(571年頃)時代に、越前味真野に住み、後に皇位を継いだ継体天皇とその御子宣化天皇、安閑天皇の3人を祀った。
醍醐天皇延喜十年(910)『日本記略』9月5日の条には「越前国、日野名神に従5位下の位を授ける」とあり、霊験あらたかにして、著名な神として、当時すでに名山で人々の信仰を集めていた。
その後累進して、国内神名帳には神階従一位と書かれてある、
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中平吹町「日野神社」

 泰澄大師によって開かれた山頂には、時代は定かでないが、中央社殿には文殊菩薩を 北社殿には観音菩薩を、南社殿には不動明王の三尊を祀り三所権現として信仰され、府中では人々の間に、「お嶽講」が組織され、7月23日から25日の例祭には、夜を徹して、各所の参道から多くの人たちが登拝してにぎわった。
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荒谷町「日野神社」

延元の頃(1336〜)南北朝の争いが、越前におよんでくると、その兵火によって一山が焼かれ、天正(1574)の織田信長の一向一揆など二度の戦火により堂宇は灰燼と掃した。

 その後、明治4年(1871)廃仏令によって、山頂奥宮の仏像は下宮された。
明治12年5月には、山頂の中央、南の二社は下平吹へ、北の社は荒谷町、西谷町へ管理権が移された。
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荒谷町「観音堂」 

朝な夕なに仰ぐ日野山は、古代より優れた山として、
四季折々に美しいすがたを見せ、市民に愛されているが、
山は近づけば、近づくほど、そのすがたに、生きている凄さを感じる時がある。
手を合わせずに入られない、神の存在を感じる。



posted by 和姫 at 23:04| Comment(0) | 自然 風景 写真

2014年10月26日

織田信長の焼き討ちに負けず、日野山中腹に残る板碑

武生、池田線の県道を車で走ると、荒谷の滝の看板が見えてくる。
看板を右手に曲がると、日野山が真正面に、神々しく堂々と見えてくる。
山へ向って約2km、荒谷町の小さな部落をすぎると、日野神社にたどり着く。
社殿の右側の道は登山道へとつづく。

 オデラ跡までは、高速道路の排気塔をみて、中復まで約300mの急な
坂道を約1時間かけて登って行くと、高速道路日野トンネルの上あたりの、
平坦な場所にたどり着く。
 下に高速道路が走っています。この場所で僧兵たちは様子を伺っていたのでしょうか
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このオデラ跡に近い山道の両側には、自然石に刻まれた、
「開山塔板碑」「五輪塔板碑」が
今も、当時の歴史を物語るように残されている。

この板碑は越前市文化課の説明によると、
「鎌倉末期から南北朝時代の板碑である」と説明しているが、
彫られている岩石が堅い質のものか、想像以上にきれいな線刻が風雪に
絶えて残されていることが不思議た。
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通称「オデラ」と呼ばれ、禅宗であったと言われているがその資料は残されていない。

延元年間(1336〜1339)足利軍と新田義貞軍が戦った日野川の戦い。
天正年間(1573〜1591)織田信長の越前討伐の時、僧兵が多く住み
オデラも戦いの場と化し、社塔はことごとく焼き打ちに合い、2度の
兵火で、退廃したと伝えられている。
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日野神社境内に、文殊寺(現在は取り壊されてない)がある。
この寺は、オデラが建立されていた頃には、
強い勢力をもって僧兵が、一山を守っていたようで、
山番が参道の入り口に常住していたという。

貴重な遺産が山中に、数百年の歴史を刻み残されていることに胸を打つが
このまま土に埋もれていくのは残念なことだ。

荒谷地区は日野山信仰と関係が深く、観音堂、荒谷の滝、日野神社、オデラ跡など
小さい部落の中で、多くの歴史が残され、埋もれ解明されずにいるものもある。
これらの歴史的遺産をいかに、保存、管理していくか、また近辺の史蹟とつなぐ
ことで観光として活用することはできないのだろうか。





posted by 和姫 at 01:27| Comment(0) | 史蹟・神社 仏閣

2014年10月22日

信抑の村と共に、今も歴史を伝える荒谷滝

日野神社を挟み、看板のある登山道の反対の道を進むと
滝へ通じる遊歩道に出る。滝までの距離は300m、道路は
きれいに整備されている。
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滝までは30mここから道はけわしくなる
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いざ滝までの道路は、急で岩がむきだしになり危ない。
上に行くほど足場は厳しくなり、子供の足で滝つばまで
行くのは大変で、ここで子供達はギブアップ
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滝は細く流れ、滝壺は思っていたほど小さいが、同じ地区に住みながら
知らないところが多い。
 信仰山、日野山へは、ここで身を清め拝登したと伝えられている
現在も、8月23日の日野神社の祭りには、荒谷町、庄田町、平林町、岩内町から
氏子2名づつが出て一晩山頂で夜をあかし、奥の院で篝火を焚きご来光を見て下山している。
身近な所に素晴らしい自然が残され、そして今もなを、このお山を守り伝えている
多くの住民に支えられ、歴史が継承されていることを改めて知った。

タグ:荒谷滝
posted by 和姫 at 00:04| Comment(0) | 自然 風景 写真

2014年10月20日

再度 荒谷観音堂を訪ねて

東京から観音菩薩像を拝観に来るということで、区長さま
からお誘いをいただき、再度荒谷町を訪ねた。
東京からの来訪者は、ワンボックスカ―で、比較的若い男女15名くらい
区長さまは、観音堂の表、裏を開扉され大サービスのご接待です
今回は、ライトアップして撮影したので、前回6月のものより
お顔がきれいに撮れているのでのせておきます。
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撮影に力がこもります。いいお顔しているでしょ
遠方の訪問者が多いが、もっと越前市の人たちが関心をもち、
観光資源に取り上げられるといいのですが
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像はガラス越しに撮影するので写し辛い
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荒谷観音堂の狛犬
 山岳信仰の日野山 その日野三所権現の下宮である二の宮観音堂には、
市指定文化財聖観音菩薩立像一体を安置している。堂の柱内側に笏谷石製の狛犬が
一対置かれている。台石と像は一石で彫られ総高49cm、向って右側に口を閉じた
吽形(うん)を左側に口を開いた阿形(あ)を配置している。これは越前狛犬の通常の
坐り方をしている。また、顔は正面を向き。小耳を立て、髪はおかっぱ頭で、
吽形には頭に角がある。
エキゾチックな顔をして、獅子か狛犬か判断が付けがたい。
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 「吽形」
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 「阿形」












posted by 和姫 at 00:11| Comment(0) | 史蹟・神社 仏閣

2014年10月13日

新発見/享保・天保・天明の飢饉の傷跡が残る 越前市深草地蔵堂

 深草町の依頼で4月5日から堂内の調査を始めた。
この堂は龍泉寺が管理している。 御住職によると、この堂は龍泉寺を守護するために、4隅に建立された地蔵堂のうちの1ヶ所で、裏鬼門に建立されたのが深草地蔵堂であるという
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間口3間、奥行4間の堂内中央には、亨保16年8月24日(西暦1731)、清誉順應比丘が願主となり、久保町(窪町)(現在の柳町)江川に建立した、高さ1、8mの笏谷石製の、延命地蔵菩薩が安置されている。当時、府中では大火がつづき 災害が絶えることがなかった。、また、大雨による江川をはじめ、日野川、苑葉川、高瀬川の氾濫は多くの犠牲者を出した。その供養としてこの延命地蔵が建立されたと考えられる。
この時,導師として静誉上人を迎え、法要が執り行われたようで、その銘が坐像前面に陰刻されている。
 この静譽上人は浄土宗の人と考えられ、(安楽山極楽院西方寺の釈迦涅槃図)に元文2丁巳年4月8日(1737)西方寺12世静譽秀應上人時代の什物であるとの裏書があることから、年代からみて同一人物と考えられるが、今後さらなる調査が必要。
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 堂内には善光寺に関係した、一つの舟形光背に、中央に阿弥陀如来・向かって右側に観音菩薩・左側に勢至菩薩、3尊を祀る善光寺式阿弥陀三尊像が安置されている。
 また、大勧進79代・大僧正を天明2年(1782)〜享和元年(1801)の20年間、勤められた等順上人の「南無阿弥陀仏」の名号の掛軸がある。上人一代在任中に、全国を巡行して、融通念仏血脈譜を160万人余に授与したと『善光寺史』にある。寛政6年(1794)から10年まで、北陸、山陰、山陽、九州、四国、畿内、美濃を巡行していることから、堂内にある軸も授与された信者が寄進したものではないかと思われる

 堂内で目を引くのは、木像の三面六臂(三面像の頭上に五つの小面を持つ)の三宝荒神で暴悪を退治するという性質から、髪を逆立てて、眼は吊り上げ憤怒の表情を示している。不浄や災難を除去する神さまといわれることから、火の神さまとして信仰されている。
 この神像をみると、全体的に火災を受けた跡が残されている。最初に建立された久保町について、武生市年表をみると、亨保5年(1720)、天文5年(1740)、寛延元年(1748)、文政2年(1819)に、火災に見舞われていることから、この像も当時、被害に遭い、その後、現在地深草町(清水畑)に堂が建立さ移転されたと考えられる。
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 堂内には約800体に及ぶ、越前の土で造られたと思われる、高さ約11cmの小さな地蔵菩薩が安置されている。享保・天明・天保飢饉、洪水など犠牲者の供養を願い納めたものか、背面には、戒名や願主名が墨書されている。
これは越前市では大変珍しく、当時の荒廃した世の中を物語っている
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 この堂に住職が住んでいたのか、面白い珍しい品がみつかった、前面の1面には「南無観世音菩薩」の墨書があり、底面には「明治25年2月18日 深草区地蔵堂 庵主・成瀬清覚尼」銘がある。高さ約30cmの6角形の木製筒で、中には100本の竹製の「くじ」が入っていて、10本には「南無阿弥陀仏」と書かれ、残り90本には番号が打ってある。箱を振り、引いた番号で吉凶を占う「おみくじ」をしていたようで、何銭かの占い料を徴収していたのだろうか。
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 お堂入り口に釣られた、経25cmの鰐口には、天保12年(1841)寄進者銘や、壁にお堂を修理した時の、寄付者の名が張られている事から、昭和60年代ごろまでは、地元の人達によって守られ、信仰を集めていたようである。、この小さなお堂の、歴史的資産を大切に保管され、越前市の宝として守ることを願っています。

調査結果
 深草地蔵堂内の延命地蔵菩薩に、建立年、町名、願主、導師名が陰刻されていることから、享保16年、今から約300年前に、地蔵菩薩は建立され、この時「静誉上人」を導師として迎え、開眼供養が執り行われていたようである。
 明治8年の越前武生市街地地図に久保町(窪町)(現柳町)があることから、江川端に地蔵堂が建立されていたものを、その後、深草の地(清水畑)に移動し、深草地蔵堂が建立されたと考えられる。    移動年について、鰐口に年代(天保12年(1841)、町名蛭子町の銘があることから、この頃すでに深草地蔵堂が建立されていたと考えられ、明治10年、明治13年に再び堂の修理が行われている。
 現在のような地球温暖化による環境の変化は、異常気象をもたらし、いつ何処でなにが起こるかわからない、突如降り出すゲリラ雨による土砂崩れ、川の氾濫は大きな被害を出しているが、地蔵菩薩が建立された頃は、堤防の整備も不備で、ひとたび大雨が降れば、川は容赦なく氾濫して、田畑、町の人びとを苦しめ、多くの犠牲者を出したと考えられる。この御堂もそんな町の人たちによって守られていた。
 越前市への南入口、南1丁目には天保15甲辰年(1845)に建立された飢饉供養題目塔があり、北端北府町にも天保6乙未年(1835)の天保飢饉供養題目塔が建立されている。共に石塔として残されているものはあるが、深草地蔵堂のように、小さな地蔵菩薩を納め 個人を供養しているなど、当時を偲ぶ歴史的資料の発見である。またこの地蔵堂の資料は市、県関係にも残されていないという。越前市は歴史の宝庫として貴重なものが、眠っていることを改めて強く感じた。


posted by 和姫 at 05:56| Comment(0) | 史蹟・神社 仏閣