午前2時、第51回峨山道巡行に参加するため越前市を出発
天気予報は、福井、金沢、能登地方は曇りのち晴れ
でも福井の友人宅を出るころ。ポッポッとフロントガラスに
しずくが落ちてきました。
峨山道は、総持寺二祖峨山韶碩禅師が輪島市門前の総持寺と
羽咋市永光寺の住職を兼ねていた、慶応三年(1340)から
20余年間、往来した両寺を結ぶ52kmの山道で
禅師は、永光寺での、朝の勤めを未明に終えると
52km離れた総持寺での朝課に向けて、山道を駆け抜けたと
伝えられている
峨山禅師が往来した道を慕い、巡行を復活したいという気運が
市民より高まり、昭和61年、町や公民館を中心に道が整備され
峨山禅師の足跡をたどる「峨山道巡行」は今年で51回目を迎えた
「歴史の道」「修行の道」[健康の道」[ふれあいの道」を
キャッチフレーズに毎年春には、参加者を募集している
徒歩とバスを利用して誰もが参加できるようになっている
春の山道は草木が芽吹き、美しい新緑の中をただひたすら歩く
能登の自然を満喫しながら、健康で生かされていることに感謝して
自分を再認識する巡行でもある
今年の巡行参加者は、輪島市内33名、市外93名 事務局スタッフ31名
計157名の参加で、2日間にわたり行われる。初参加者は40名
峨山道実行委員会、輪島市門前総合支所地域振興課 輪島市交流政策部
観光課の若き職員スタップの案内、休憩所での接待と人情豊かな能登の
人たちとの会話に心和む。
巡行道は、平坦な道、長い上り坂、下り坂、急な坂道、起伏に富んだ
山道を歩く、今年は猪捕獲のためのオリも仕掛けてあった
道中の安全を願い、多くのボランテアによる、道路の点検、笹や草刈り
木の選定、私たち参加者のみえないところでの御苦労、感謝です
総持寺を誇りに思い、愛し、町づくりに真剣に取り組むひとたち
町づくりは人と人の結びつき、エネルギー、そしてあたたかなおもてなしのこころ
能登には、今も心を温かくしてくれる風土と人がいます
能登門前も能登地震以後、街並みはきれいに整備され美しい
北陸新幹線が金沢まで開通した、。
能登には、魅力的な観光資源はたくさんあり、旅人のこころを癒してくれる
これからもずーっと素朴な、日本の原風景を忘れないところでであってほしい
曹洞宗大本山総持寺は、越前市帆山町で誕生された瑩山禅師が
元享元年(1321)に開創された寺院で永平寺と共に
曹洞宗の大本山として栄えていた
しかし明治31年4月、突然の出火、折からのフェーン現象により
七堂伽藍を焼失し、布教電動の中心を神奈川県横浜市鶴見区に移転
門前町総持寺は総持寺祖院として、脈々と禅の心を今に伝えています
総持寺疎音法堂に掲げられている 瑩山禅師誕生の彫刻
2015年05月13日
中世の里山古道 峨山道巡行に参加して
posted by 和姫 at 23:33| Comment(0)
| 福井県外編
2014年04月29日
峨山道巡行交流会に参加して
今年で50回をむかえる、峨山道巡行を記念して、
前日に行われる、交流会に出席するため午前9時福井を出発、
途中、のと里山街道のパーキング西山で、ちょっと早い昼食
、迷った末、お店のおすすめ海鮮丼に決めた。
手ごろな値段の割に、味は上々、女3人でゆっくり食事を楽しんだ
ここから車で走って、門前までは30分、みておけばいいかな〜
バッチリでした12時30分、交流館に着いた
禅の里交流館を1時30分マイクロバスに乗り
総持寺祖院から史蹟めぐりに出発
まず、門前にある「観音堂縁記」から転写した、瑩山禅師の筆による
「能登櫛比庄」の文字。細い線を見ていると、瑩山禅師の優しい人間性が見えてきます、


前日に行われる、交流会に出席するため午前9時福井を出発、
途中、のと里山街道のパーキング西山で、ちょっと早い昼食
、迷った末、お店のおすすめ海鮮丼に決めた。
手ごろな値段の割に、味は上々、女3人でゆっくり食事を楽しんだ
ここから車で走って、門前までは30分、みておけばいいかな〜
バッチリでした12時30分、交流館に着いた
禅の里交流館を1時30分マイクロバスに乗り
総持寺祖院から史蹟めぐりに出発
まず、門前にある「観音堂縁記」から転写した、瑩山禅師の筆による
「能登櫛比庄」の文字。細い線を見ていると、瑩山禅師の優しい人間性が見えてきます、


峨山禅師以後、総持寺では「住持輪番制」がひかれ、輪番住職が交代する時は、長谷の湊で
下船して、黒島近くの海鮮問屋を営む総持寺御用の船鑑札をもっていた森岡家で身を整え
行列を作り総持寺へ上堂したという。
その受け渡しの法要が厳修された後に、披露の宴で歌われたのが「とろろ節」であった
「ドン、ドン、ドン」太鼓の音で始まる「門前とどろ」は、喜びと安堵を込めた宗教的意味を
含めお囃子「善哉 善哉」は仏教用語で「よいかな」の意で
諸願満足、円融円満の意味が込められている
この唄の一節にある「能登の門前すじかい橋を、死なぬ一期にハア渡りたい」
すじかい橋は、今の山門から200m離れた、総持寺総門跡地あたりにある。
ここで馬を降り、長い参道を歩き寺に入った。
総門跡地には、文化5年(1808)の石字経王塚と法身舎利塔元禄2年(1690)が
建つている。いかに総持寺が広大であったかが分かる

昔はここから山門まで約200mあった、遠くに総持寺祖院が見える

祖院三松関前に「従是禅定石五町(コレヨリゼンジョウセキゴチョ)」の道標が立っている
能登は桜の満開を迎えていた、桜のトンネルをくぐり、和田山山頂には
瑩山禅師と峨山禅師が坐禅をしたという坐禅石がある。
ここからは、総持寺祖院や門前の町並が見え、西の方向には日本海がみえる
「瑩峨御両尊」はここに坐り何を語ったのだろうか、静けさのなかで、何を
夢見ていたのだろうか。全国に正伝の仏法を伝え、人々の幸せを祈り、
人間とは何か、模索しつづけていたのではないだろうか、

総持寺祖院から約3キロ、トンネルを抜けると鹿磯区にでる、ここに「長谷観音堂」がある
能登地震で港の先端にあったお堂は、新らしくなり高台に移転されている
以前、何度かこの地に、観音さまを訪ね来たが、会えることはなかったが
長年の思いがやっと叶い、参拝することができた。
信仰心厚い地元の人たちによって守られている。今回、堂を守っているおばあさんにお会いした
一途に観音さまを慕い、観音さまと共に生きている、篤い思いが伝わり
信仰の本当のすがたを見た思いがした


堂内には 高さ80cm、経40cmの丸太を切りぬき観音さまが彫られ、
その両側には狛犬が置かれている。桃山時代の作と言われ、疑灰岩でできている。
なんともいえないエキゾチックな顔をしている


当時の能登半島は、海から入ってくる、豊かな経済に支えられ、格調高い
文化が香る、開かれた土地であった。
この能登の地に、禅苑を開いた瑩山禅師の教えも、また、海の交通を利用して
全国に伝播していき、生きがいを失くした、多くの人たちに希望を与えてくれた
鹿磯の観音さまは、港に出入する船の安全を祈り土地の人たちに温かく守られている。
3月18日には大祭が行われ、総持寺祖院から、監院が出向き法要が営まれるなど
総持寺と観音さまは深い関係があるようだ
posted by 和姫 at 23:18| Comment(0)
| 福井県外編