2017年02月10日

越前万歳考A 演目「おはや・良作」と念仏行者無智光導


 越前万歳の歌詞には、新春を祝って繁栄を願う「祝儀,縁起もの」のほかに「囃子もの」「世話もの」「道中もの」「町もの」「軍記もの」など60曲が残されている。そのなかで「おはや・良作」は世話ものにはいる、江戸時代の実話悲恋ものがたりをもとに作られている。

 金沢城下を舞台に、加賀藩家臣.安達弥兵衛のニ男良作と同家の下女であった金沢犀川商家、秋元屋平助の後妻そとの娘・はや十六歳は相思相愛の仲となり親の知るところとなった。しかし藩士の息子と商家の娘、この時代に身分違いの恋愛は許されず、良作は、家来の松原八右衛門を連れて、親に背き名も捨て財産もすて、夫婦約束の証文を身につけ文化五年(一八〇八)五月四日、金沢城下を離れ恋の逃避行に及んだ。しかし、坂井市長畑まで早籠を走らせ、二人の後を追ってきた母・そよが、良作の説得にも応じず、はやを強引に連れ戻そうとしたため、そとを斬ってしまった。その場で、良作はこれまでと覚悟を決め、心中を決意して、事の顛末、わび遺言状をしたため、父に届けるように家来の八右衛門に託した。そして「はや」と共に夫婦として、城下に戻れる事を願う文章をしたため心中を遂げた。時、文化五年五月六日、城を出て二日目のことであった。そして、忠義な八右衛門も又、良作の願いに反し、自らの命を断った。

元禄十六年(一七〇三)鯖江吉江藩の武士の子・近松門衛門は大阪堂島新地天満屋の遊女はつと、内本町醤油商平野屋の手代徳兵の悲恋物語を人形浄瑠璃『曽根崎心中』として発表した。最後の道行の段は「未来成仏うたがいなき 恋の手本となりにけり」と来世で結ばれるという日本人の情緒的感情で結ぶ。この演目を皮切りに「心中もの」がブームとなり、文楽、歌舞伎の演目として採り上げられ、享保五年(一七二〇)に発表した「心中天の網島」は門左衛門の最高傑作となった。しかし、来世で二人が結ばれるという心中事件が多くなり、江戸幕府は亨保八年(一七二三)上演や執筆を禁止、心中を企てたものには重い罰が課せられた。
 「おはや・良作」もまた、自由な恋愛が許されない封建的な社会のなかで、はかなく散った恋は、近松文学作品と重なり、庶民の共感を呼び語り継がれてきた。時代を経て悲劇的な出来事も、越前万歳の演目として大切に取り上げられ継承されている。
万歳の特色を生かし、「徳若に御万歳」で始まり、金沢を出発、北陸道を南下して野々市~大聖寺~細呂木〜金津を通り最終地点福井松本までの地名、名所、旧跡が盛り込まれ、軽妙なタッチで演じられ悲想感はない。最後の句は縁起・祝儀を起源とする「祝い数えて舞い納む」で結ぶ。「おはや・良作」の関係資料が坂井市御油田の演仙寺に残されている。その文字は達筆で、教養のある人物であったとみえる。時代に翻弄され二人の思いは成就しなかったが、二百年以上すぎた今も、越前万歳のなかで二人は生きつづけている。まさに門左衛門の「未来成仏うたがいなき 恋の手本となりにける」である。

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おはや・良作の供養塔と供養地蔵堂

坂井市長畑、旧北陸道に面した一里塚があつた場所に、道を挟み供養塔と地蔵堂が建立されている。地蔵堂には、五体の地蔵が収められている。中央には丸彫り立像、足元には小さな地蔵四体が安置されている。地蔵には「俗名為了作」「俗名為早」の名が銘刻され、背面には文久元年辛酉冬 ナムアミダ仏の文字が見える。
道路向かい側には、おはや・良作の勿谷石製の供養塔が、建立されている。塔身正面の丸い特徴のある「南無阿彌陀佛」の文字と右側面「志ゝてのち わがみにそゆる たからにハ なみ阿みだぶに 志くものハなし」の歌は、大聖寺藩江沼郡那谷町、那谷寺の前にあった浄土宗三光院・念仏行者 無智光導が二人を憐れみ捧げたものである。現在寺は、那谷寺参道に新しく建て替えられ、無住であるが、大きな透明なガラス戸越に仏さまを拝むことができる。
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光導は、享和二年(一八〇二)石川県江沼郡潮津村宇野川(現在の加賀市野田町)農家の次男として生まれた。文政三年ごろ母親の死を期に出家、大聖寺鈇砲町松縁寺の徒弟となる。その後、京都知恩院にて修行。文政十二、三年の頃には京から戻り、舟見山麓荒谷の鶴ヶ谷近くの岩窟に入り八、九年修行を行い、天保十年(一八三九)三光院に住持する。北陸三県で浄土宗の布教活動に尽力、歌を詠むことを好み、温厚な人柄は良寛さんに似ていた。そんな心優しい光導は心痛め、県境を越え「おはや、良作」の供養のため坂井町長畑へと足を運んだ。
光導の住む江沼郡は、寛永六年(一六三九)加賀藩三代藩主利常が隠居の際、三男利治に大聖寺七万石を与え立藩、強固な城下町を築き、藩の施策として絵付の美しい九谷焼きを奨励した。明治四年廃藩置県までの二三〇年間大聖寺藩は栄えた。江戸時代、野大坪万歳は毎年元旦には金沢や大聖寺の各藩に招かれ、城の大手門は万歳によって開かれ、町並みの玄間先で新年を寿ぐ光景は、正 
月の風物詩となっていた。特に金沢では、万歳師の宿には前田家の家紋「剣梅鉢」をつけた高張り提灯を立てることを許され厚遇された。
加賀万歳は、越前万歳を受継いで文化・文政時代(江戸後期)に起こった。時を同じくして「おはや・良作事件」が起きたのもこの頃である。おはや・良作の地蔵堂・供養塔は、越前万歳と加賀金沢・大聖寺とのつながりを示す歴史の証として残されている。
 
右側面 「志(し)ヽてのち  わがみにそゆる  たからにハ 
                なむ阿みだぶに  志(し)くものハなし」
善導大師                
正面    南無阿弥陀佛     無智 光導  花押 心
                    
左側        天保十ニ年辛丑年三月吉日
                     念仏講中
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 「寿ぎの祝言」を今日、聞くことは少ないが、新年、味真野商工会二階で披露される越前万歳は、新年を迎えるにふさわしく、見る人の心を温かくしてくれる。
最近の創作演目「越前名所づくし」は、1500年の歴史ある越前市の名所、旧跡を訪ね観光して一巡する。現代にふさわしく高速道路、ハイテク産業まで織り込まれ、身近に感じられ面白い。一つの演目を演ずるための言葉数の多さに驚き、そして記憶力に圧倒される。「この年で楽しみがあることはありがたいことです」元旦、八十歳を超えた才蔵さんの司会の言葉は「越前万歳」にかける喜び、情熱、魅力、すべてが込められていた。全国の三大万歳の一つに数えられ、国の重要無形民俗文化財に指定されている。味真野には宝のお山がたくさんある。

参考資料 
「味真野歴史を学ぶ講座」越前万歳歌詞について
『坂井郡誌』

                                                                              
                                無断転用を禁ずる
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2016年06月11日

越前万歳考 @ 越前万歳と前田利家公

越前万歳と前田利家公のつながり
元旦、味真野の里は新春を寿ぐ、軽妙な太夫と才蔵の掛け合い、シャシャシャ・・・と擦る、すり太鼓の音「徳若に御万歳と〜やかた栄えて申せん申せば、天から宝が降り下りや」お家の繁栄を願うお家万歳で一年がスタートする。越前万歳の発祥は古く、継体天皇が味真野に住んでいた男大迹皇子のころの伝承や、鎌倉時代、源頼朝の御殿に招かれ、万歳を舞ったことが、越前万歳の発祥であるという諸説があるが定かでない。
天正三年(一五七五)織田信長は一揆衆を全滅させ、越前国を配下に収めると、柴田勝家を越前北の庄城に置き八郡を与えた。その見張役として府中三人衆を入府させ、佐々成政には小丸城を、不破光治には龍門寺城を、尾張国荒子出身の前田利家には府中城が与えられた。府中三人衆が連名で発した案堵状(「大滝神社文書」)にみる序列では、不破河内守光治が上位で、佐々内蔵助、前田又左衛門尉利家とつづく。『北日野古文書撰』「式内帆山神社 事由 天正四年丙子二月 当国北庄様ヨリ当社御尋ニ付当御領主 府中龍門寺御城代 佐々内蔵助様江 村方ヨリ書上」の文中には、龍門寺城は、不破光治の居城であったものが、お尋ねの件の御城代は成政であり、当時三人の居城はまだ確定していないようである。
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                [帆山神社」

天正八年(一五八〇)信長は、加賀・越中の一向一揆を平定すると、翌年天正九年(一五八一)、成政は越中国に移封し、利家には能登二十三万石が与えられ、「七尾宝円寺(後に母の菩提所長齢寺)」「小丸山城」の建設をはじめた。この時、成政入府から六年で未完成のまま廃城となった「越前小丸城」の資材を当時運輸の手段であった川船で運びだされ「小丸山城」が築城されたという。   今立郡真柄村は利家の支配地で、昭和七年、小丸城の西北隅から出土した文字瓦には「五月廿四日 一揆がおこり 前田又左衛門尉殿は一揆千人ばかりを生け捕りにし・・・」非情な成販をした利家の名がみえる。また、佐々成政は今立郡大滝村、岩本村など小丸城周辺の五箇を支配、この時、紙座を保護する証状を出し、粟田部付近の検地をお行っているなど、小丸城に成政と利家は同住していた可能性は高い。身近な城に野大坪村の百姓さん達が、年頭の行事や祝事に小丸城へ出向き万歳を披露したことが、前田利家との関係を深めていったのではないだろうか。
更に、天正十一年(一五八三)利家に加賀が与えられ「金沢宝円寺」を建立すると、利家の菩提寺「越前高瀬宝円寺」、同郷尾張荒子出身の住職・大透圭徐禅師を開山に迎えた。その後、大徹の弟子象山徐芸禅師が二世を継ぎ、加賀百万石の城下町づくりの一助を担い尽力した。越前の文化、芸能・経済・産業は越前の影響を大きく受けることとなった。

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            「前田利家菩提寺 越前市高瀬宝円寺山門」
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 越前高瀬宝円寺
  「前田利家の父利昌 戒名休岳の僧形石像と母戒名長齢院妙久大姉の宝筐印塔」
   宝筐印塔は荘厳な越前式で、天正8年11月24日の銘がある。

参考資料
「味真野歴史を学ぶ講座」味真野地区の歴史を考える 小丸城と文字瓦 
『福井県史』通史編3 近世
posted by 和姫 at 22:25| Comment(0) | 伝統行事

2014年08月03日

帆山町お地蔵まつり

「おさいせんお願いします」炎天下のなか
子供達が、通行人、通行車両に向いお賽銭をお願いする
この行事は、昔から行われているもので、10年前までは小学1年
から中学1年の男子だけで行われていた。
中学1年生が大将となり、地蔵さまへのお供え物、低学年の面倒から、
賽銭のおあがりの分配まで、すべて子供に任され運営され
タテの関係がうまく保たれいた。
しかし、近年の交通量の多いこともあり、親の管理下で行われる様になり、
子供の祭りへの関心も薄らいできている。
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このお地蔵さまは、県道ができるまでは、味真野へ至る、山道に
建てられていたもので、旅人の休憩場、道しるべとして、利用され
旅の安全を願い建てられたようだ
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2014年03月30日

奥深い「越前万歳」そのルーツは?

今回の味真野ふるさと講座は、地元発祥の越前万歳について
保存会代表・堀先生の話を伺う
年齢を感じさせない、素敵な笑顔で、生き生きと話される
そのお姿に、50年間伝統を守って活躍されている、信念と自信が
伝わってくる
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古来から日本には、新春に神が福を授けにやってくるという
「言霊(ことだま)」言葉の信仰があった
新春に各家を訪れ、おめでたい言葉を並べ、「歌い、舞い、寿い」でまわる、
めでたい言葉を聞いて、福が舞い込み、家が栄え繁盛すると信じたのです。
これが「万歳」で「祝福芸」という

越前万歳は、馬の革をはった小さな「すり太鼓」を
弓形をしたバチの外側でこすり音を出す、
「恵比寿大黒、おめでたい、鶴は千年亀は万年」などおめでたい聞きなれた
言葉はわかるが、言葉は早口で、聞いていてわかりにくいが、
全体の雰囲気から、何を表現しているかはわかる
また、そのリズムは特異的なものを感じさせ
インドからシルクロードを通り、日本へ入って来たのではないかと思われる

越前万歳のルーツは、天正元年(一五七三)八月、越前を攻めた織田信長は
一乗谷の朝倉義景を滅ぼし、天正三年(一五七五)大軍をもって越前国に侵入して
一揆衆を全滅させ、越前国を配下に収めると、柴田勝家を越前北の庄城に置き八郡を与えた
信長は勝家の見張り役として、府中三人衆「佐々成政(さっさなりまさ)・
不破光治(ふわみつはる)・前田利家」を入府させ、三人に合わせて十万石を与えた。
成政は小丸城を、光治は龍門寺城を、尾張国(おわりこく)荒子(あらこ)出身の
前田利家は府中城を与えられた。
この時、利家が尾張万歳を越前へ伝えたと言われている

越前万歳は伝承の地名を取り、もとは「野大坪万歳」と言われている
府中3人衆と関係の深い、味真野地区での発祥は、いかにこの地区が
栄えていたかを物語るのではないだろうか

その後、利家の加賀移住とともに、
越前万歳も加賀、大聖寺へ出向き、芸を披露しで歓待された
万歳師の宿には、前田家の家紋、剣梅鉢の紋の入った提灯を掲げる
ことを許されるなど優遇されている

越前万歳の演目で、昔から式三番として大切にされている
「ことぶきの万歳」がある。
このなかで、才蔵は大きな押絵の「チョウチョなぎなた帽子」をかぶり
赤いたすきに扇をもって舞い、途中で細竹の先に5色の布を付けた
シテと言う棒を持って演じる
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「ことぶきの万歳」の内容は、新春に金沢に出向き、藩主、奥方、若君、姫君への寿ぎを謡い
新春の華やいだ城中を寿ぎ、やがて屠蘇の酔いで初夢を見る
初夢は広い野原で若君たちが、源氏と平家にわかれ、合戦に夢中になるという
一門の繁栄も約束されるという戦国期にふさわしいものである

もし「チョウチョなぎなた帽子」が「ことぶきの万歳」のなかの源平合戦の
平家方の帽子に付けられた、平家の家紋「蝶」と考えられないだろうかとの質問に
先生のご指摘は、前田家は源氏だから、それは考えられないとの事でした

また、万歳のなかの源平合戦が、金沢の正月の室内集団遊びとして
昔から「旗源平」として子供に遊ばれている事は、
万歳の影響を受けているのではないかと先生はいわれている

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「カツト木版 陶工・塚原介山 昭和12年の作」郷土研究雑誌、南越民俗第4号表紙より

越前万歳は平成7年、国の無形民俗重要文化財の指定を受け、
全国の三大万歳に数えられている。
今年の新春、孫が出演することもあり、初めて万歳が演じられる味真野商工会にでかけた
「百聞は一見にしかず」自分が思っていた、万歳のイメージとは程遠いものがあった。、
これからも土地に根づいた文化を大切に、越前市の宝として、
市全体が興味をもち継承していってほしいと願う



タグ:越前万歳
posted by 和姫 at 09:55| Comment(0) | 伝統行事

2014年01月02日

越前万歳で新春を満喫

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、味真野神社拝殿には、奉納される 越前万歳、演目お家万歳1番を
見物する参拝客で満席、人の間を縫ってやっと1枚写真が撮れた。

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 味真野小学校で万歳クラブで練習してきた、孫が出演するということで
初舞が披露される、味真野商工会館へ移動した。
越前万歳といえば、正月元旦に新年を寿ぎ、リズミカルな太鼓と鮮やかな
グリーン色の衣装を着けて、優雅に舞うことしか知らない。
楽しみにして、今日は上演される会場を訪れた。

会場は、満席とはいかないが、報道関係のカメラ、愛好家のビデオカメラが目立つ。

1番の演目はお家万歳 師匠から奥義を伝授された万歳で、演目の一番最初に演じられる。
「徳若に御万歳と〜やかた栄えて申せん申せば、天から宝が降りくだりや〜」
新春を寿ぎ舞われ、お家の繁盛と発展を祈るめでたい万歳で、演ずる人たちの
意気がピタリと合っている。

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2番・演目「七福神」味真野小学校児童

新年を迎えて七福神が宝舟に乗ってやってきて、宴会を開き踊りだすという話、 
全員で、扇を持つ太夫と、太鼓を鳴らす才蔵が掛声をかけて舞う。
「飲めや大黒、歌えや恵比寿、踊って踊って弁天さん、魚は恵比寿さんの
大鯛で、小鯛おめでたい、言葉のはなもさくら鯛」孫は大きな声で
ちゃんと、直経約23cm、厚さ約9cm、
エゴの木で作った弓形のバチで、スリ太鼓を叩き、
上手に演目を上演してくれました。

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準備はいいですか「よこいすか〜」、準備はいいよ「よこいしょ」の掛声で舞台へ登場
演目3番 三番叟  中学生と高校生が演じてくれた。

才蔵は2箇の太鼓を下に置き、座って2本のバチではやしたてる。
太夫は色彩鮮やかな「チョウチヨウナギナタ帽子」に五色のハチマキを結び
後ろへ長く垂らして、勇壮に地面を強く踏み動きまわり、今年の五穀豊作を祈る。

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4番・演目 「ことぶき」  上方漫才の原型となっている。
 別名「御寿命の万歳」「竹馬の万歳」といわれ、太鼓を用いず、太夫と才蔵が
独特の節回しで、かけあいながら舞う「鶴は千年、亀は万年、会場の皆々様は8千年」

 才蔵は大きな「チョウチョウナギナタ帽子」をかぶり、赤いたすきに扇を
もって舞う。途中から5色の布をつけたシテを持ち舞う、これは竹馬遊びや、
越前万歳の起源である、継体天皇の愛馬の病気祈祷に使用された
御幣ともいわれている。

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5番・演目 「おはや良作」
江戸時代の大事件、金沢藩の御用商人若旦那良作とその家の下女おはやは
悲恋の逃避行の末に、坂井市長畑町で命を絶った。
金沢から北陸道を通り、福井までの地名をよんでいる。町尽くし。
聞き覚えのある地名が多く出てくる。

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6番・演目 「越前市名所尽くし」
味真野を出発して、越前市街地から吉野、大虫、王子保地区へ
今立紙すき産地で、ご案内の終点です。
台本はできたのですが、完全に覚えていないのでという才蔵さんの、
現場の写真を見せての、とちりながらのかけあいですが、ユ―モアがあり
会場を沸かせてくれた。
こうして新しい演目ができてくるのですね。来年に乞ご期待ということです。

7番・演目 「七福神」小学生が演じた演目を、中学生。高校生が演じる。

8番・演目「鳥刺し」
 侍鳥帽子をかぶった太夫は2枚重ねた着物の1枚を両肩脱いで
腰のまわりに下げて「ひとつ、ヒヨドリ」から「十でトンビ」まで
それぞれの鳥のしぐさやさえずりをまねて、鳥刺し棒1本を操り動き回る。

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越前万歳は江戸時代に入ると、福井の各藩はもとより、加賀藩まで出向き、お城で舞いを
奉納すると、城下町の1軒1軒をまわり新春を寿いで回った。特に加賀では前田家に保護され
万歳師の宿泊する宿には、加賀家の家紋「剣梅鉢」がついた堤灯が立てられていた。
この様に、各地の町々で、新春の祝福芸として歓迎され、また北陸地方の娯楽として
子供から大人まで親しまれてきた万歳も、昭和の時代に入り、娯楽の変化と共に衰退していった。

昭和39年に味真野万歳保存会が結成され、郷土を誇る民族芸能として、
地元小中学校に万歳クラブができるなど、積極的に後継者育成に取り組み
平成7年12月には、国の重要無形民族文化財の指定を受けた。
地元だから携え、貴重な体験を舞台で経験している子供達、どの子たちも堂々と越前万歳を演じて
いる。この子たちが次の時代を担う、太夫と才蔵に育ち、越前市の新春を寿いでいってほしいと
願っている。

また、万歳が全国で今に伝えられているのは、江戸時代、三河出身の徳川家に保護された、
愛知県の「三河万歳」「尾張万歳」、そして越前市味真野に残る「越前万歳」3件となっている。











タグ:越前万歳
posted by 和姫 at 07:43| Comment(0) | 伝統行事

2013年12月15日

田の神さま、今年1年ありがとう

越前市平林町、集落のなかほどに五体の石造が安置されている。
「田の神さま」と言われ、アワビ形の石を立てたもので、
それらの塔は前面に輪郭をもち、東向きに横一列に並んでいる。
田の神は、旧暦2月に神さまを山からお迎えして
12月には感謝して山へお送りする。
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今年一年の農作業の無事と五穀豊穣を感謝して毎年12月5日に
神事が行われる。
儀式は当番制で1軒が宿番となり、その宿番は「村人十人衆」立会のもと
豊作をもたらしてくれた「田の神さま」に感謝して、「田」の四隅に清めの
塩を盛り、取水口には真新しいコモを敷き、田の神さまに感謝の意を表します。
一蓮のこの儀式は、羽織袴という正装で行われている。

この日、今も田の神さまにお供え物をしている
西谷町の伝右衛門氏のお宅へ、写真を撮りにうががった
昔とは簡素化になっているが、大根、蕪の太い輪切りを味噌仕立てにしたもの
焼カレイ、大きく切った大根、あげ、人参、里芋の煮物、
おはぎ(昔は1升ますに入れた大きなおはぎ)を農作業道具「みい」に並べ
農作業小屋の種もみのまえにお供えしたが、現在はコンバインの上にお供えしている
今では、この様に手をかけてお供えをする農家はほとんどなくなってきたと言う。

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日本人の米離れが進んでいるというが、私たち世代にとって1番おいしいのは
お米。梅干しに昆布そんな単調な素材が新米にはお似合いです。
タグ:田の神さま
posted by 和姫 at 00:40| Comment(0) | 伝統行事