2017年05月23日

眠っている町のお宝 越前深草地蔵堂

越前市深草町「深草地蔵堂」調査報告       
                                    作成 平成26年4月8日
                                    再作成 平成28年12月20日
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地蔵堂は越前市深草町を南北に流れる河潅川に沿った道路に面して建てられている。間口3間、奥行4間の
瓦吹き堂内中央には、亨保16年8月24日(西暦1731)勧進僧清誉順應比丘が願主となり、久保町(窪町)
「現在の柳町」江川端に建立されていた、高さ1.7mの笏谷石製の、延命地蔵菩薩が安置されている。
当時の資料、越前市史などを探ってみると、府中では度重なる大火や飢饉、また大雨による江川をはじめ、日野川、苑葉川、高瀬川の氾濫は多くの犠牲者を出していることから供養としてこの延命地蔵が建立されたと考えられる。
005.jpgこの時,導師として正覚寺40代静誉上人を迎え、法要が執り行われたようで、その銘が坐像前面に陰刻されている。今回新しく発見した「導師 静誉上人」「三界萬霊」の陰刻により、堂内の全容が見えた。また、石仏に陰刻された「導師静誉上人」について、平成28年11月に解明,後記説明をつけ加える。 
 久保町江川に建立されていた地蔵堂が、現在地深草に移動した経緯は不明であるが、久保町付近は、越前の産業 鎌、鍬、包丁などを作る鍛冶屋が集中し、府中における出火多発地帯あった。地蔵堂も災禍を受け深草への移転を余儀なくされたと思われ、三宝荒神には、痛々しい火災跡が残り、府中の歴史を物語っている。
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※静誉上人について
 上人号の下にくる文字「誉」は浄土宗において用いられている
平成28年度、越前市公会堂において開催された、開祖650年記念特別展『正覚寺展』の資料「正覚寺歴代住持職一覧」によると,享保9年(1724)から宝暦10年(1760)までの14年間、越前市京町 浄土宗正覚寺の住持職を勤めた40代静誉上人である。御上人は教養もあり活動的な方であられ『新善光寺略縁起』を書き、その翌年には江川端に奉安された延命地蔵菩薩開眼の導師を勤められている。

※新正覚寺略縁起について
 静誉上人は在職中の享保15年(1730)信濃の『善光寺略縁起』や『太平記』17巻から引用して『新善光寺縁起』を書いている。
その内容は新善光寺の縁起というよりは、善光寺如来の変遷について書かれている。その昔、如来は福井赤坂善光寺に奉安されていたが、新田、足利の兵乱により堂宇は灰燼と化したため、府中の城へ如来を移し奉安してより、この城は新善光寺城と名づけられた。(後に太西山正覚寺と改める)延元3年(1338)北朝の武将尾張守斯波高経は新善光寺城を拠点として、府中一帯を制覇すべく、南条郡杣山城を拠点とした南朝方の武将新田義貞軍と日野川を挟み激しい攻防を繰り広げた「日野川の戦い」で、新善光寺城はまたも灰燼と化した。この時、戦火を逃れて2代良信上人は(暦応3年庚辰初夏の頃)池ノ上村〈現越前市池ノ上町〉に草堂を建立(現大林寺)して、尊像を山陰に隠し奉安、国家安泰を祈願した。その後良信上人は 府中に戻り正覚寺を建立して、再度池の上より阿弥陀如来をお連れして安置したという。この尊像は、建久6年卯天5月15日(1195)今から855年前、尾張の定尊沙門が信濃善光寺へ百日参籠して三尊を拝し、瑞夢のお告げにより、汝我が形像を鋳奉するべきとの仏勅にて造られた日本無類之本尊である。

※新善光寺開祖良如上人
開山良如の父如道は、三河門徒の越前進出のなかで師円善と出会い弟子となり、正応3年(1290)足羽郡大町に専修寺を開いた。14世紀にかけて越前高田系の布教の最大拠点となり、如道の法脈は、高弟道願(今立郡上河端新出 誓願寺開祖) 三河出身道性(横越証誠寺開祖)本願寺覚如の兄如覚(鯖江誠照寺の祖)そして、如道の長男良如は(府中浄土宗正覚寺開祖) 次男如浄(大町専修寺2代)3男浄一(大町専照寺開祖) 4男正通 (府中片屋光照寺開祖)など親鸞の教えは越前の各地に広がっていきました。
 良如は浄土宗浄華院8代 敬法に帰依し、南北朝時代斯波高経の居城新善光寺城跡に,貞治5年(1366)越前市に初めて浄土宗正覚寺を開創しました。その2年後の応安元年(1368)には、正覚寺を2代良信に譲り、敦賀に北朝4代後光厳天皇の勅願により鎮西派西福寺を創建開祖となっています。

※地蔵堂内部
074.JPG 善光寺関係では、一つの舟形光背に、中央に阿弥陀如来・向かって右側に観音菩薩・左側に勢至菩薩、3尊を祀る善光寺式阿弥陀三尊像が安置されている。阿弥陀如来の印相は特徴的で、右手は手のひらを開き、私たちの方に向けた施無鋳印、左手は下げて人差し指と中指を伸ばし、他の指は曲げるという刀印、左右の菩薩の印は梵篋印といい、胸の前で左手に右の手を重ね合わせている。三尊像は蓮の花が咲き終えた芯を、臼型に重ねた蓮台に立っておられる。

 大勧進79代・大僧正を天明2年(1782)〜享和元年(1801)の20年間、勤められた等順上人の「南無阿弥陀仏」の名号の掛軸がある。上人一代在任中に、寛政6年(1794)から10年まで、北陸、山陰、山陽、九州、四国、畿内、美濃を巡行、融通念仏血脈譜を100万人余に授与し、善光寺信仰の全国普及に大きな役割を果たしている。堂内にある「南無阿弥陀仏」の軸も、授与された信者が寄進したものではないかと思われる

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 堂内で目を引くのは、木像の三面六臂(三面像の頭上に五つの小面を持つ)の三宝荒神で暴悪を退治するという性質から、髪を逆立てて、眼は吊り上げ憤怒の表情を示している。不浄や災難を除去する神さまといわれることから、火の神さまとして信仰されている。
この神像をみると、全体的に火災を受けた跡が残されている。最初に建立された久保町について、武生市年表をみると、亨保5年(1720)、天文5年(1740)、寛延元年(1748)、文政2年(1819)に、火災に見舞われていることから、この像も当時、被害に遭い、その後、現在地深草町(清水畑)に移転され、再建立された可能性が高い。
『善光寺史』によると善光寺仁王門の東側にある仁王像の裏側には、火難防 止の守り神として三宝荒神が安置されていることから、この尊像も善光寺と関係が深い

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堂内には約800体に及ぶ、市販のセトモノか、高さ約11cmの小さな供養地蔵菩薩が安置されている。享保・天明・天保飢饉、洪水など犠牲者の供養を願い納めたものか、背面には、戒名や願主名が墨書されている。これは越前市では大変珍しく、当時の荒廃した世の中を物語っている

130.jpg また、この堂に住職が住んでいたのか、面白い珍しい品がみつかった、前面の1面には「南無観世音菩薩」の墨書があり、底面には「明治25年2月18日 深草区地蔵堂 庵主・成瀬清覚尼」銘がある。高さ約30cmの6角形の木製筒で、中には100本の竹製の「くじ」が入っていて、10本には「南無阿弥陀仏」と書かれ、残り90本には番号が打ってある。箱を振り、引いた番号で吉凶を占う「おみくじ」をしていたようである。

 111.jpgお堂入り口に釣られた、経25cmの鰐口には、天保12年(1841)寄進者武生蛭子町・○○家内の銘や、壁にお堂を修理した時の寄付者の名が張られている事から、昭和60年代ごろまでは、地元の人達によって守られ、信仰を集めていたようである。現在は高齢化や守人たちが亡くなるなど、堂の管理はされていないが、この小さなお堂の、歴史的資産を大切に保管され、越前市の宝として守ることを願っています
            
【資料久保町・府中大火・飢饉(武生市年表)より】
享保5年 庚子(1720)9月22日 久保町出火(家老状留・市史藩政)
享保16年辛亥(1731)11月13日 越前地方百年来の大雪となり、壊家29戸 死者34人に及ぶ(福井県史・南条郡史・丹生郡史)
享保17年壬子(1732)害虫発生のため飢饉、藩の救米五百俵をだす(福井県史・南条郡史)

元文元年 丙辰(1739)府中大火 100余戸焼く
元文5年 庚申(1740)8月2日  久保町失火(家老状留・市史藩政)
寛延元年 辰戊(1748)3月27日 久保町龍門寺門前出火民家120戸 寺2ヶ寺焼失(家老状留・市史藩政・南条郡誌)
宝暦4年 甲戌(1754)府中大火 2月17日 登町など」120戸焼く
宝暦12年壬午(1762)府中大火4月3日 200戸  4月17日 1400戸
安永9年 庚子(1780)府中大火130戸焼く
文政2年 己卯(1819)7月1日 久保町養徳寺前20戸、蔵1棟焼失(辻川旧記録)
天保7年 丙申(1836)北陸大飢饉 翌年にかけて府中餓死者3000人
天保8年 丁酉(1837)本保町に天保救荒碑建つ
弘化元年 甲辰(1844)餓死者供養のため、上市町に月光寺(大仏))を建立
嘉永5年 壬子(1852)3月23日 府中大火 上市ら1500戸焼く

                                      
越前市「深草町地蔵堂」仏像調査 平成26年4月8日     北陸石仏会 きたむら
                                        補助者  おおうら          
調査内容、
1. 石仏関係
※ 延命地蔵尊半迦像(笏谷石製) 
     高さ 170cm
(ア) 創立 亨保16年辛亥8月24日(西暦1731)
(イ) 願主 清誉順應比丘  他に寄進者名か戒名を刻む
(ウ) 明治10年10月(1877)  
     再施主名を刻む 堀川利右ヱ門 伊藤孫八 曲木甚造     
(エ)  明治13年(1880) 再施主名を刻む  三代野久造     
※ 基壇は笏谷石2段積
(ア) 前面 上壇 三界萬霊 導師静誉上人銘有       
(イ) 右側 上壇 享保16年辛亥8月24日、 願主 清誉順應比丘   
(ウ) 左側 上壇 明治10年 明治13年 再施主銘     
(エ) 左側 下壇 享保年 寄進者・戒名か判読できない     
(オ) 右側 下壇 享保年 上に同じ 
※ 丸彫り合掌型小地蔵坐像  延命地蔵15体
※ 立像 不動明王  1体  曙大石銘

2. 木仏関係
※ 木仏  観音立像     1体 金箔  
※ 善光寺式三尊仏 1体 制作者 田中太三郎 
※ 阿弥陀立像 1体 上品・下生の印相
※ 小型釈迦誕生仏 1体
※ 弘法大師坐像 1体
※ 三面六臂坐像 1体 明王又三宝荒神 
 
3. 軸物  南無阿弥陀仏   1点  大勧進76代  等順上人 
※ 西国三十三ヶ所 3点

4. 陶器 小仏 約800体以上 非常に珍しい 
5. 鰐口   25cm  天保12年(1841)銘   寄進者 武生蛭子町 堀川〇〇家内 
6. 堂内提灯の寄進  新在家 堀川〇〇            

【調査結果】
 この堂は、師匠で県文化財保護指導員の山本氏が逝去される数ヶ月前の平成24年5月1日に調査されている。この時、延命地蔵の前面に燭台が置かれてあったことから、「導師 静誉上人」「三界萬霊」の銘を確認していないが、今回の調査で銘を発見、確認したことにより、この堂の内容が把握できた。
深草地蔵堂内の延命地蔵菩薩に、建立年、町名、願主、導師名が陰刻されていることから、享保16年、今から約300年前に、久保町江川端に勧進僧清誉順應比丘が願主となり地蔵菩薩が建立され、この時、静誉上人を導師として迎え、開眼供養が執り行われたようである。この上人については、平成26年調査当初、不明であったが、平成28年、先に記載したように正覚寺代40代静誉上人であることが判明した。
また、明治8年の越前武生市街地地図に久保町(窪町)(現柳町)があることから、江川端に地蔵堂が建立されていたものを、その後、深草の地(清水畑)龍泉寺の所有地に移動し、深草地蔵堂として建立されたと考えられる。移動年について、鰐口に年代 天保12年(1841)、町名蛭子町の銘があることから、この頃、深草地蔵堂はすでに建立されていたことになる。しかし鰐口の寄進者の町名が蛭子町(当時新在家)であることから、現在の鰐口は再作製されたと考えられる。明治10年、施主堀川利右ヱ門、伊藤孫八、曲木甚造の銘が基壇にあり、明治13年には、再び施主三代野久造によって修理が行われたようで、この地蔵堂は町民により守られてきた。地蔵菩薩が建立された当時を前後すると、災害が頻繁に起きている。大火、飢饉、堤防の整備不備は川の氾濫を招き、田畑、市井の人びとを苦しめていた。そんな犠牲者の供養をするためか、堂内には延命地蔵を囲むように800体以上の小さな地蔵菩薩が安置されている、その背面には、戒名、俗名、願主が記入され、この堂が庶民の信仰の対象とされてきたことがわかる。
越前市への南入口、南1丁目には天保15甲辰年(1845)に建立された飢饉供養題目塔があり、北端北府町にも天保6乙未年(1835)の天保飢饉供養題目塔が残されているが、深草地蔵堂のように、小さな地蔵を納め 個人を供養しているものは市内には残されていない。また、三宝荒神坐像は、越前市では拝することがなく、武生大火を証明するなど、当時を偲ぶ歴史的資料として保存を願いたい。
(以上資料として写真添付)

【今後の課題】
1、約800体に及ぶ供養地蔵は、越前の土かセトモノで造られているのか?030.jpg
2、阿弥陀如来像の鑑定 
037.jpg              
3、鰐口の銘、天保時代、蛭子町という町名があったのか?
4、三宝荒神の後背は火事で焼けているのではないか                                                                                           
                                味真野歴史を学ぶ講座
                                                                                       報告  おおうら
                              
                              掲載文書・写真 無断転載を禁ず
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2016年06月10日

旧武生郵便局舎門柱の幸せの鳩

越前市の中心地、広小路通りに面して
大正3年10月、武生郵便局舎として新築された
木造二階建の、しょう洒な洋館風建物が残されている
昭和4年までの15年間、郵便と電信・電話業務を取り扱っていた。
現在越前市の越前府中まちなか博物館に指定されている
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この建物の門柱が残されている
勿谷石製で、文字の書かれていた部分は剥離が激しく
読み取れないが、左右には「鳩」のデザインが彫られ
当時の名残を残している。
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鳩は幸せを運ぶ郵便物の象徴として描かれ
単独で武生の郵便局のシンボルマークとして取り扱われたのだろうか
〒マークと共に「鳩」が再び郵便局のイメージマスコツトとして
登場してはどうだろうか、かわいい鳩を見ていてそう感じた



posted by 和姫 at 22:54| Comment(0) | 歴史的遺産

2015年05月07日

越前市に残る金灯籠

紫式部公園の東側から北に、菊人形会場までの
800mの道路は小川に沿って整備され
「ふるさとを偲ぶ散歩道」として市民に親しまれ
ウォ―キングコースとなっている
この沿道に、高さ1,8mの基礎台座の上に、約3mの大きな金灯籠が
建っている。
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一番最初に建立されたのは、文政13年(1830)、越前市で一番賑やかな場所で
あった、本町の町用水の分岐する場所に建てられた

金灯籠の寄進者は伊勢神宮を篤く信仰していた
越前藩主本多家御用達酒造業平吹家主人が、自宅前に建立したもので
毎日日暮れになると、自ら種油を注ぎ火をともし
伊勢神宮に献灯したと伝えられている

こうして武生の名所として100年続き、市民に親しまれたが
第二次世界大戦中に、金属回収のために供出され姿を消した

しかし、これを惜しみ、昭和42年には武生信用金庫が、
日野川万代橋西詰に復元したが、
更に昭和63年、現在地紫式部遊歩道に移築された


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2015年04月14日

教えてください 天阿上人とはどんな人物

大野市下黒谷町、黒谷観音表参道を登って行くと
右側は墓地、左側は杉林になっている所に、
自然石高さ150cmに、梵宇「阿弥陀如来」キリークと
六字の名号「南無阿弥陀佛」が彫られた
天阿上人の銘と花押がある、名号塔を発見した

その後、気になり再び、現地を訪ねると、この石碑より10mくらい
登った所に小ぶりな、自然石に陰刻された天阿上人の名号塔を見つけた
この墓地は、市街地にある浄土宗 善導寺の墓地であるようで
この上人も知恩院関係と思われる。

また参道を登ったところには、本尊十一観音を祀る
国生山 仏性寺 黒谷観音があるが、この寺と上人の
関係はないようです。この上人が歴代の知恩院の上人ならば
大野市としても、黒谷観音及び雪崩れ防護壁に描かれたレリーフと
共に、大変貴重な歴史の足跡と考えられるのでうが?

この上人と花押が一致する人物を知りたいのですが、
ご存じの方教えてください。

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また、名号塔の反対側の墓地には、知恩院御門跡第七十九世山下現有(孝譽上人)の
自然石に落款が彫られた、六字の名号を発見する。
この人物は、筆跡、銘文から孝譽上人と確認できる。
      
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             知 恩 院  一 門

         南 無 阿 弥 陀 佛
              
                孝 譽  □ □
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          孝譽の落款

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           左側面  大正十甲子年 
                  □ □ □ 
              





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2014年10月13日

通学路で見っけたお宝とは?

健康と子供達の安全登校を願い、子供達にやっとついていける
だけの、見守り隊ならぬ見守られ隊だけど、休まず往復40分の
距離を歩いている。
 そんな毎日の道で、ちょつといいものをみつけました。
 川で洗濯をしているとドンブラコ、ドンブラコと流れてきた
大きな桃を拾い上げて、家に持って帰り切って見たら、あーらビックリ
かわいい男の子がでてきました。で始まる童話『もも太郎』その桃が
今は空き家になっている、旧家の木製の塀の上にあります。ユニークですね
 
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道路を挟んでお向かいにの門には お城の天守で見かける、すがたは魚で
頭は虎で尾ひれは常に天を向いている架空の動物、鯱が1対飾られている
鬼瓦と同様に、家の守り神として、火災の際には水を噴き出して、
火を消すと言われているが、一般家庭で見るのは珍しい
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また、軒先にも、神社の守護神狛犬が、1対飾られている
この狛犬と鯱は同材料の越前の赤土で造られている。
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この門構えのお宅、由緒ある家柄のようにお見受けしていました
実はこのお宅、全国で最初にできた辞書、父谷口松軒と息子安定が共に編集して
明治22年に東京で発行した。漢字のあて字辞書『魁本大字類苑』の著者 谷口安定の
母の実家でした。
 安定は、天保9年(1838)本多家の家臣であった松軒の子として屋敷内で誕生した
 安政6年(1859)江戸の若山塾に学び、2年後には越前に戻り、松井耕雪が創設した
藩校「立教館」の教師を勤めている。
しかし、明治3年の「武生騒動」に参加して福井の牢獄に入牢されるが、
6ヶ月後の明治5年、進脩小学校(武生東小学校の前身)に勤め
明治6年、初代校長に就任している
明治22年安定は父松軒と共に編集した『魁本大字類苑』(かいほんだいじるいえん)を発行した。
このように、全国的にレベルの高い辞書が武生の地で編集されたことは、この地が江戸時代
から学問が盛んであった事の証明である。
 また、藩校「立教館」からは、多方面にわたり優れた人材を排出し、
日本の近代国家へ向う一端を担っていた。
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2014年06月02日

越前市桧尾谷町に残る 鞍谷氏の供養塔

越前市街地から、車で15分、魚見坂を経由して池田町に至る、桧尾谷町の道路沿いに
「ここから700m、鞍谷氏供養塔」の看板をみっけ、山に向かい車を走らせる
この地の小字名は「陵(みささぎ)」と呼ばれ、丘陵であった
 鞍谷氏供養と伝えられているものは、笏谷石製の七重塔で、すでに相輪から上部はなく
高さ約230cmで、装飾紋様や銘文、種子は一切認められない。
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 京より越前に下向した、室町3代将軍足利義満の孫嗣俊は、鞍谷氏を名乗り、
足利将軍家の流れをくむとして御所号を許され、鞍谷御所と称し、現在の味真野神社に
居住していた。鞍谷氏は嗣俊、嗣時、嗣知の3代にわた150年間この地を支配していたと
伝えられている。

最近の説によると、室町時代後期には、越前に勢力をもっていた朝倉氏が、
文明18年(1486)斯波義俊を越前守護に迎え 鞍谷氏の
娘との婚姻関係を結ばせ、鞍谷氏を相続させたといわれている。、
天正3年(1575)朝倉氏滅亡後は、小丸城を築城した織田信長の家臣、府中3人衆の
ひとり佐々成政に従ったと伝えられている。

池泉町には、館跡があり、武衛山には居城跡が残されている。供養塔北側の
「石山はずれ」と呼ばれるところには、鞍谷氏の菩提寺真言宗慈雲寺があったが
天正3年8月、織田信長の一揆侵攻で滝川一盛の兵に焼き払われたと伝えられている





posted by 和姫 at 21:33| Comment(0) | 歴史的遺産

2013年11月26日

奥の細道を訪ねて・気比大神宮・芭蕉の碑

 元禄2年3月27日(旧暦5月16日)俳人松尾芭蕉は弟子曾良を伴い、江戸から『奥の細道』の旅に
出発した。奥州地方のまだ見ぬ歌枕の地を旅し、日本海の海岸線を南下して、7月15日石川県に入り
加賀山中温泉、小松那谷寺を過ぎ、福井県吉崎に入り、北陸道を南下して、松岡天龍寺、永平寺を
過ぎ,旧知であった福井の等栽宅に二泊した後、旧暦8月14日早朝、等栽とともに仲秋の名月をたのしみに敦賀を目指した。

芭蕉は、福井から敦賀までの道中を『奥の細道』の中で「名月は敦賀の湊にと旅立つ。等栽もともに送らんと、裾をかしからげて、路の枝折れとうかれ立つ。ようやく、白根が嶽(白山)かくれて比那が嶽(日野山)あらわる。あさむつ(麻生津)の橋を渡りて、玉江の芦は穂に出にけり、鶯の関を過ぎて湯尾峠を越ゆれば、燧が城、鹿蒜山に初鴈を聞きて、14日の夕ぐれ敦賀の津に宿を求む。その夜 月殊に晴れたり」
旧暦9月27日、芭蕉は出雲屋に宿をとった。
今宵の月は快晴で美しい、芭蕉は宿の主人に「明日の夜も晴れるでしょうか」と尋ねると、主人は酒を勧めながら「北陸の天気は変わるもの、、明日はわかりません。今宵の内に気比神宮へお参りに行きましょう」
月のきれいな夜だった、月に照らされた白砂をみて一句「月清し 遊行のもてる 砂のうえ」と詠んだ。
これは正安3年(1301)時宗2代目他阿上人が、諸国巡錫中に、この地に滞在し、上人自らが海岸より
砂を運び、参道を整備した故事にちなんでいる。
8月15日、主人の言葉どうり、北陸の天気は移ろいやすく、雨であった。
芭蕉は奥の細道の旅において、月を題材に詠むことを目的としていたが、、
敦賀での仲秋の名月をみることはできなかった。

「名月や 北国日和 定めなき」

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芭蕉は敦賀で、5句詠んでいる、そのうち2句は気比神宮で詠まれている
境内には、敦賀で詠んだ月の5句の碑と昭和57年に建立された芭蕉像がある。

8月16日、天気は回復して晴れ、「奥の細道」の長い旅の終わりが近づいてきた
芭蕉が歩いた敦賀の最後の道を、再び訪れた時またブログで紹介します。



越前市に残る芭蕉に関係する石碑
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越前市河濯山境内 亨保15年3月15日 府中の俳人露朝が芭蕉から貰った「古池や蛙飛びこむ水の音」の色紙を埋め色紙塚と名づけた。
芭蕉は、敦賀へ向う途中、天気が気がかりだったのだろう日野山を見て「明日の月 雨占はむ 比那が嶽」と詠んでいる。

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石碑裏面には、芭蕉の弟子各務支考の撰文が刻まれているが、風化して詠みにくくなっている。

元禄14年(1701)各務支考は芭蕉俳偕の指導者として、美濃から越前に来錫、
越前の俳人増永遠近、上坂嵐枝に会い、積極的に俳偕の普及に努めた。
嵐枝は支考より文台を与えられ、府中美濃派の始祖となった。
支考が越前で詠んだ、遠近亭「冬かけて 籾する宿の 月夜かな」
帆山寺「千鳥啼く あかつきかけて 帆山寺」がある
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2013年11月23日

越前の社交場・府中町屋倶楽部

越前市は戦災、震災の被害にあうことなく、町屋や神社仏閣、など
多くの貴重な建物が残されている。
町の中央、蔵の辻、南側に面した入口の角に、町屋倶楽部がある。
越前市の指定する、府中まちなか博物館の22軒のなかの1軒に数えられている、
明治時代初期より、道斎めぐすりの名で、目薬を製造、販売を商ってきた。
その後、産婦人科医院として開業していたが、郊外へ移転し
長く空屋となっていたものを、市民グル―プによって補修再生され、
外壁の漆喰、袖卯建が蘇った。

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     「道斎めぐすり」

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      「仁丹」
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現在に通じる、多くの薬の看板が室内に残されている。これはお宝ですね
この建物は現存する町屋のなかで立派な部類に入る。

タグ:町屋
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2013年11月20日

知恩院孝譽上人の六字名号塔を発見

先日訪れた、大野市下黒谷地区の墓地の六字名号塔の写真を
改めて見直した。
知恩院御門跡第七十九世山下現有(孝譽上人)の
自然石に彫られた、六字名号を発見する。落款の陰刻あり
仏教界を代表する六字の名号である      
この人物は、筆跡、銘文から孝譽上人と確認できる。

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                 知 恩 院  一 門

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                      孝 譽  (落款)

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               孝譽の落款

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               左側面  大正十甲子年 
                        □ □ □ 


                   急いでいたので、再度調査の必要がある

       
山下現有(1832〜1934)京都知恩寺、東京増上寺の住職を経て
浄土宗総本山知恩院の門主となり、同時に浄土宗管長に就任
長命で昭和九年103歳で示寂 広く仏教界から生き仏と尊崇されてきた



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2013年11月10日

福井城の石がこんなところに

用事があって、越前市今立町の越前市役所別館を訪れた
目に止ったのは、入口に置かれた大きな石
表面には「躍進今立町」と越前市合併前の「今立町」が刻まれてある。
裏面には「福井城本丸の石」
こんな所に、お城の石が再利用されていました。

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北ノ庄城は、越前一向一揆を平定した、功積によって
越前一国を与えられた柴田勝家が、天正三年(1573)築城したもので、
同十一年(1583)賤ヶ岳の戦いで、秀吉軍に敗れた勝家はお市の方と
共に城に火を放ち、自害した悲劇の城です。
NHK大河ドラマ江「姫たちの戦国」で、お市方の娘、茶々、初、江3姉妹、
が、母市への思いを残しながら、城外へ出る、あの強烈なシ−ンの舞台です。

その後、慶長6年(1600)関ヶ原の合戦で軍功をあげた結城秀康は
徳川家康より越前68万石を与えられ、北ノ庄に入封すると築城をはじめ
6年の歳月をかけ完成させた。5重の水掘で囲まれた本丸には、
4層5階の立派な天守閣が建てられた。
この時、北ノ庄城の名称「北」は敗北に通じる不吉な文字として「福井」に
変えられている。

現在、幾重にも造られた外堀は埋められているが、内掘には、足羽山で採掘された
笏谷石が扇形の勾配に積まれ、そのなかに福井県庁、県会議事堂、県警察本部が
置かれ県の行政を担っている。



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2013年11月09日

聳立つ巨大な守護仏・下黒谷の雪崩擁護壁

大野市小山地区は、人口約2000人、世帯数約650戸、15の集落で構成され
村の歴史は古く、地域の歴史や文化を掘り起す事業が展開されている。
集落の一つ、赤根川の上流に位置する下黒川区、黒谷観音堂のある、山の麓に
巨大なコンクリ―の大壁がある。集落と山を隔てる雪崩防護擁壁は高さ155m
長さ300mと訪れた人を驚かせる。

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昭和2年(1927)表層雪崩により、3軒の家が流出し、多数の犠牲者を出した。
また、昭和56年(1981)56豪雪時にも表層雪崩が発生して、
被害はなかったものの上黒川、下黒川の住民は避難している。

再び悲惨な事故が起こらないことを願う地元住民の要請を受けて、県が整備。、
平成4年から平成8年、5年の歳月をかけ完成した。

擁壁には、当時、国生山佛性寺 通称黒谷観音の御住職徳岡師に依頼して、
黒谷区の17戸の住民をイメージした、永遠に住民の安全と無事を祈る、、
観音経のなかの観音像や羅漢像が、大きさ縦3.5m、横2.5mのレリーフ15枚、
に描かれている。
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今や世界のどこかで、干ばつや熱波、豪雨による洪水、台風と被害が出ている。
全国各地で起きている、熱中症で救急車で運ばれる人数は年々増加し、
熱帯のスコールを思わせる、突然のゲリラ雨は日常化し、竜巻の被害も出ている。
環境の変化は、今までに経験したことのない異常現象として現れている。

長い地球の歴史の中で、急速に進む異常気象は生命の危険にさらされ
いつ、どこで、なにが起きても不思議でない。
どう地球を守るか、経済成長の代償は大きい。

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2013年11月06日

ありました、徳本上人の六字の名号

大野市・浄土宗善導寺 美しい石畳のつづく、寺町通りに面した
ところに、徳本上人の「南無阿弥陀仏」六字の名号塔がある。
石碑裏面の基壇のレリーフには、
「善導大師1300年大遠忌記念、昭和55年開眼供養」とある
この時、墓地を整理したのか。千仏塔の中央に、立派な名号塔がある

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あります
徳本上人の花押
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徳本上人は江戸時代後期の浄土宗の僧で、若くして出家、木食行を行い
ただひたすら「南無阿弥陀仏」を唱え全国を行脚して回った。

福井県の、徳本上人の名号塔3ヶ所見つけました。丸みを帯びた特徴な文字は、見る
者を飽きさせませんネ。






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2013年11月05日

大野市善導寺に結城秀康の家臣土屋正明の墓を訪ねて

結城秀康が没すると家臣永見正次33才と土屋正明24才は殉死した。
正明の墓を訪ね、大野市錦町 通称寺町通りにある、大野でただ1ヶ寺の
浄土宗・善導寺を訪ねた。
ここは、大野藩主土井家の菩提寺で、墓地には一族の19基の墓が建立されている。
門前からは、眼前に大野城がそびえ、寺の歴史と重なり美しい

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天正3年(1575)越前大野は織田信長の家臣であった金森長近が大野城を築城、
城下町を整備して、町づくりの基礎が築かれた。、
金森長近が飛騨高山へ移封すると、豊臣秀吉の家臣青木秀以、長谷川秀一と短期間で
領主が変わり、織田信長の孫秀雄は、大野藩5万石を豊臣秀吉から与えられ
大野城主となるが、関ヶ原の戦い慶長5年(1600)で西軍に味方して、改易される。

その後、初代福井藩主・結城秀康の重臣土屋正明は3万8千石を与えられ
大野城主となった。(慶長6年(1601)関ヶ原の戦いに勝利した
結城秀康が越前一国68万石の大名に任じられた、この時、
秀康の重臣本多富正も、越前府中3万7千石を与えられていることから
土屋正明が大野藩を与えられたのも同時期と思われる)

しかし、慶長12年(1607)主君結城秀康が没すると正明は殉死した。
その後、慶長14年(1609)子忠次が後を継いだが、
殉死を禁ずる徳川幕府にとがめられ、土屋氏は改易となっている。

土屋正明の墓は、善導寺北側にある。石龕の中に宝筐印塔が納められている。
高さ98cm、基礎は上部を二段作りとし、正面は四分して、上半には連子窓を
下半には格狭間を拝する越前式文様を施している。
正面縦帯には、次の銘文を陰刻している。

    右帯  慶長十三年戌申年           
    中帯 高岳宗心居士
    左帯  卯月十一日

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塔身は正面は越前式月輪を刻み、月輪の中に文字が彫ってあるが判読は困難である。
この石龕の横には、宝篋印塔と一石五輪塔の一部が遺存しているが、共に笏谷石で
家族か家臣のものと思われる。

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2013年10月31日

月のミステリー、徳本上人の足跡

月が三つに割れて見える、そんな不思議なこと現代の世の中で信じられますか。

左岸に日野川が流れ、霊峰日野山、信仰の山、村国山を眼前にのぞみ、
北陸道に面した松森町に、その秘密は隠されている。

陰暦の七月二十七日夜明け、月が三つに割れて(三光天子と称す)
東の天空に出現するのを拝すと、幸せになれると伝えられている。
(故事によると、7月26日 夜待ちの月は阿弥陀、観音 勢至の出現
といわれている)
 
伝承によれば、この地方を巡錫していた徳本上人が、たまたま七月二十六日、
地蔵堂のなかで仮眠していると、東の天空に三光天子が現れ、
それを村人に話たのが、月見地蔵堂の始まりだと伝えられている

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                 (徳本上人名号塔)

松森出身の母の時代には、近隣の多くの人たちが,盆踊りをして時をすごし
月の出を待ったという。娯楽のない時代楽しいひとときであったのだろう

本当に月が三つに割れて見えたのだろうか、その答えはわからないが
これも信仰心篤い,日本人のこころからでたものである。

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                  (月見地蔵堂内)

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2013年10月30日

越前市に残る徳本上人の名号塔、

市街地の西、産業道路を走ると余田町(町名の読み方は難しく「はぐり」と読む)の
道路に面し、東向きに建てられている。石材は安山岩と思われ、高さ185cm
前面中央には、徳本上人独特の終筆が跳ね上がる「南無阿弥陀仏」と、
その向って右側には「観世音」と左側には「大勢至」が陰刻してあり
名号の下には、徳本上人の花押がある。
両側面にも、連台のうえに名号が陰刻されている。

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徳本上人は江戸時代後期の浄土宗の僧。ただひたすら木魚、鉦を鳴らし
「南無阿弥蛇仏」を唱え日本各地をまわり、庶民の苦しみを救った念仏行者
である。巡錫を契機に各地に念仏講が組織され、徳を慕い名号塔が造られた。
巡錫の際、余田町の片山家で宿泊したと伝えられている。
文政元年(1818)十月六日、江戸一行院で遷化された。




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