2015年11月01日

越前万歳「お早良作」の供養塔の謎が解けました

越前万歳題目「お早と良作」の供養塔のある
坂井市長畑へ行ってきました
011.jpg

実話、今から約200年前の文化5年、加賀大聖寺藩の武士と町人の娘の
悲恋物語。この地で命を散った二人の心情を憐れみ、
旧北陸道に面した一角に、文久元年(1868)地蔵堂が建立され
道を挟みお堂の向い側には、地蔵堂より約30年前、天保12年(1841)辛丑年3月
勿谷石の供養塔が建立されている。柔らかい勿谷石のこと基礎部分が
ひび割れし、正面の文字もうすくなりつつある。
歴史的資産は、屋根などつけて保存をお願いしたいです
053.jpg

この供養塔の「南無阿弥陀佛」特徴のある丸みを帯びた文字と花押から
念仏行者、浄土宗の無智光導と認められる
側面右側には、善導大師の教えか、光導自身が詠んだものか
「志ゝてのち わがみに そゆるたからにハ なむ阿みだぶに 志くものハなし」の
文字が刻まれている
029.jpg

039.jpg



この地にきて、地蔵堂、供養塔が今も、近隣の人達に守られ、
道行く人たちの安全を守っている。2人は幸せにいてくれるね
そんなあたたかさが感じとれた

この地に、光導行者がなぜ供養塔を建立したのか、その謎が解けました
次回の投稿をお楽しみに
posted by 和姫 at 23:53| Comment(0) | 史蹟・神社 仏閣

2015年05月30日

板橋禅師さまお誕生日おめでとうございます

瑩山禅師お誕生の地、越前に御誕生寺が建立され
落慶法要が執り行われたのは、平成21年6月7日、
今年で6年目を迎える
開山忌と板橋禅師のお誕生日をお祝いした「誕生祭」がおこなわれました。

御誕生寺は、日野山を背景に、溢れるばかりの新緑が、
訪れる人達の心を癒してくれます

世間では、寺を訪れる人達が少なく、寺の運営を危ぶむ
声も聞こえるが、御誕生寺は違う、平日でも多くの参拝者がおとずれ
境内を散策したり、猫と遊んだりと人さまざまだが、なぜか人はうろうろしている
今では、境内にテントが張られ、椅子が置かれ多くの人たちの憩い場所となっている。
中高年より若い人の参拝者が多いのも他所では見られないことである

板橋禅師さまの、人の心を癒してくれる人間的魅力に、
お会いできるのも参拝することの楽しみでもある

お元気で89歳のお誕生日を迎えられました。
穏やかなその御姿は、ますます禅師さまが仏さまに見え
手を合わせずにはいられない尊い存在になられてきました
IMG_7449.jpg


IMG_7475.jpg

禅師さまが総持寺貫首職まで辞され、取組んでこられた
市民に開かれた寺院づくり、
その思いを、副住職が受け継がれ、着々と進行されていますが
中年の私としては、寺として人を導き、育て、相談できるところ
気がるに立ち寄れる場所、人の心に寄り添える寺であってほしいと願っています


posted by 和姫 at 01:09| Comment(0) | 史蹟・神社 仏閣

2014年11月03日

光に導かれ、南越前町糠円光寺へお参り

一雨ごとに寒くなってきました。里の山々も色づき始めました
お元気ですか。
昼から、永代供養の法要がおこなわれるということで
南条郡南越前町糠・円光寺へお参りに行きました。
この寺の創建は678年と古く、お御堂へ入ると寺の歴史を感じます。
084.jpg


天台僧 真盛は全国各地で布教を勤めたが、長享2年(1488)
八月越前府中に立ち寄り、引接寺を創建していることから
この頃、円光寺も真盛上人に帰依し、天台宗真盛派となり
近隣の村々の人たちから篤く信仰されていた。
047.jpg


今日も、お参りの人の多くは、老若婦人が多いが、土地柄で男性は海に
出て漁をして生活をしているので、女性のお参りがほとんどだという
お参りの多くは、近隣、村内の人達が大半で、村外からの参拝者はいない
今も、村の団結心は堅く、きちんと守られている。
051.jpg

境内の入り口には、笏谷石製の六地蔵が祀られ、その中央には延命地蔵が安置
され、その基盤3面には「明暦3年2月(1657)」「・・和尚位」の陰刻銘文がある。
076.jpg

本堂前には、花崗岩製の総高(約4m)の宝篋印塔がある。塔身4面には金剛界4仏の
種子を刻み、基盤石には多くの戒名と共に「願主・敦賀真禅寺 真□上人/當寺良戒和尚
納軽 祖玄法師」とあり、塔身下台背面には「干時 弘化二年七月日建為(1845)」などある。
また境内には、経塔1基が横倒しに寝かせている。
049.jpg


050.jpg


墓地中央に笏谷石製三重塔がある。また墓地内には、笏谷石の欠損品が残されている。、
068.jpg

古い寺には、必ず歴史的な石塔、石仏が残されている。しかし、割れたり、倒れたり

その価値をわからずに無残に放置され、捨てられるものが多い。

特に、福井県の場合、神社や寺には、材質が柔らかく細工がしやすい
足羽山で採掘された、笏谷石が多く使われ、残されている。

しかし、平成11年の笏谷石採掘の中止は、再び石造物として笏谷石が蘇ることはない。

既存の品を大切にしてほしいと願っています。

posted by 和姫 at 23:33| Comment(0) | 史蹟・神社 仏閣

2014年10月26日

織田信長の焼き討ちに負けず、日野山中腹に残る板碑

武生、池田線の県道を車で走ると、荒谷の滝の看板が見えてくる。
看板を右手に曲がると、日野山が真正面に、神々しく堂々と見えてくる。
山へ向って約2km、荒谷町の小さな部落をすぎると、日野神社にたどり着く。
社殿の右側の道は登山道へとつづく。

 オデラ跡までは、高速道路の排気塔をみて、中復まで約300mの急な
坂道を約1時間かけて登って行くと、高速道路日野トンネルの上あたりの、
平坦な場所にたどり着く。
 下に高速道路が走っています。この場所で僧兵たちは様子を伺っていたのでしょうか
P1050108.jpg


このオデラ跡に近い山道の両側には、自然石に刻まれた、
「開山塔板碑」「五輪塔板碑」が
今も、当時の歴史を物語るように残されている。

この板碑は越前市文化課の説明によると、
「鎌倉末期から南北朝時代の板碑である」と説明しているが、
彫られている岩石が堅い質のものか、想像以上にきれいな線刻が風雪に
絶えて残されていることが不思議た。
P1050091.jpg


P1050088.jpg


P1050082.jpg

通称「オデラ」と呼ばれ、禅宗であったと言われているがその資料は残されていない。

延元年間(1336〜1339)足利軍と新田義貞軍が戦った日野川の戦い。
天正年間(1573〜1591)織田信長の越前討伐の時、僧兵が多く住み
オデラも戦いの場と化し、社塔はことごとく焼き打ちに合い、2度の
兵火で、退廃したと伝えられている。
P1050084.jpg

日野神社境内に、文殊寺(現在は取り壊されてない)がある。
この寺は、オデラが建立されていた頃には、
強い勢力をもって僧兵が、一山を守っていたようで、
山番が参道の入り口に常住していたという。

貴重な遺産が山中に、数百年の歴史を刻み残されていることに胸を打つが
このまま土に埋もれていくのは残念なことだ。

荒谷地区は日野山信仰と関係が深く、観音堂、荒谷の滝、日野神社、オデラ跡など
小さい部落の中で、多くの歴史が残され、埋もれ解明されずにいるものもある。
これらの歴史的遺産をいかに、保存、管理していくか、また近辺の史蹟とつなぐ
ことで観光として活用することはできないのだろうか。





posted by 和姫 at 01:27| Comment(0) | 史蹟・神社 仏閣

2014年10月20日

再度 荒谷観音堂を訪ねて

東京から観音菩薩像を拝観に来るということで、区長さま
からお誘いをいただき、再度荒谷町を訪ねた。
東京からの来訪者は、ワンボックスカ―で、比較的若い男女15名くらい
区長さまは、観音堂の表、裏を開扉され大サービスのご接待です
今回は、ライトアップして撮影したので、前回6月のものより
お顔がきれいに撮れているのでのせておきます。
108.jpg

撮影に力がこもります。いいお顔しているでしょ
遠方の訪問者が多いが、もっと越前市の人たちが関心をもち、
観光資源に取り上げられるといいのですが
110.jpg

像はガラス越しに撮影するので写し辛い
112.jpg


荒谷観音堂の狛犬
 山岳信仰の日野山 その日野三所権現の下宮である二の宮観音堂には、
市指定文化財聖観音菩薩立像一体を安置している。堂の柱内側に笏谷石製の狛犬が
一対置かれている。台石と像は一石で彫られ総高49cm、向って右側に口を閉じた
吽形(うん)を左側に口を開いた阿形(あ)を配置している。これは越前狛犬の通常の
坐り方をしている。また、顔は正面を向き。小耳を立て、髪はおかっぱ頭で、
吽形には頭に角がある。
エキゾチックな顔をして、獅子か狛犬か判断が付けがたい。
033.jpg


038.jpg


031.jpg

 「吽形」
034.jpg


035.jpg


 「阿形」












posted by 和姫 at 00:11| Comment(0) | 史蹟・神社 仏閣

2014年10月13日

新発見/享保・天保・天明の飢饉の傷跡が残る 越前市深草地蔵堂

 深草町の依頼で4月5日から堂内の調査を始めた。
この堂は龍泉寺が管理している。 御住職によると、この堂は龍泉寺を守護するために、4隅に建立された地蔵堂のうちの1ヶ所で、裏鬼門に建立されたのが深草地蔵堂であるという
164.jpg

間口3間、奥行4間の堂内中央には、亨保16年8月24日(西暦1731)、清誉順應比丘が願主となり、久保町(窪町)(現在の柳町)江川に建立した、高さ1、8mの笏谷石製の、延命地蔵菩薩が安置されている。当時、府中では大火がつづき 災害が絶えることがなかった。、また、大雨による江川をはじめ、日野川、苑葉川、高瀬川の氾濫は多くの犠牲者を出した。その供養としてこの延命地蔵が建立されたと考えられる。
この時,導師として静誉上人を迎え、法要が執り行われたようで、その銘が坐像前面に陰刻されている。
 この静譽上人は浄土宗の人と考えられ、(安楽山極楽院西方寺の釈迦涅槃図)に元文2丁巳年4月8日(1737)西方寺12世静譽秀應上人時代の什物であるとの裏書があることから、年代からみて同一人物と考えられるが、今後さらなる調査が必要。
170.jpg


003.jpg


011.jpg

 
 堂内には善光寺に関係した、一つの舟形光背に、中央に阿弥陀如来・向かって右側に観音菩薩・左側に勢至菩薩、3尊を祀る善光寺式阿弥陀三尊像が安置されている。
 また、大勧進79代・大僧正を天明2年(1782)〜享和元年(1801)の20年間、勤められた等順上人の「南無阿弥陀仏」の名号の掛軸がある。上人一代在任中に、全国を巡行して、融通念仏血脈譜を160万人余に授与したと『善光寺史』にある。寛政6年(1794)から10年まで、北陸、山陰、山陽、九州、四国、畿内、美濃を巡行していることから、堂内にある軸も授与された信者が寄進したものではないかと思われる

 堂内で目を引くのは、木像の三面六臂(三面像の頭上に五つの小面を持つ)の三宝荒神で暴悪を退治するという性質から、髪を逆立てて、眼は吊り上げ憤怒の表情を示している。不浄や災難を除去する神さまといわれることから、火の神さまとして信仰されている。
 この神像をみると、全体的に火災を受けた跡が残されている。最初に建立された久保町について、武生市年表をみると、亨保5年(1720)、天文5年(1740)、寛延元年(1748)、文政2年(1819)に、火災に見舞われていることから、この像も当時、被害に遭い、その後、現在地深草町(清水畑)に堂が建立さ移転されたと考えられる。
077.jpg

083.jpg


 堂内には約800体に及ぶ、越前の土で造られたと思われる、高さ約11cmの小さな地蔵菩薩が安置されている。享保・天明・天保飢饉、洪水など犠牲者の供養を願い納めたものか、背面には、戒名や願主名が墨書されている。
これは越前市では大変珍しく、当時の荒廃した世の中を物語っている
090.jpg

026.jpg


 この堂に住職が住んでいたのか、面白い珍しい品がみつかった、前面の1面には「南無観世音菩薩」の墨書があり、底面には「明治25年2月18日 深草区地蔵堂 庵主・成瀬清覚尼」銘がある。高さ約30cmの6角形の木製筒で、中には100本の竹製の「くじ」が入っていて、10本には「南無阿弥陀仏」と書かれ、残り90本には番号が打ってある。箱を振り、引いた番号で吉凶を占う「おみくじ」をしていたようで、何銭かの占い料を徴収していたのだろうか。
130.jpg

 お堂入り口に釣られた、経25cmの鰐口には、天保12年(1841)寄進者銘や、壁にお堂を修理した時の、寄付者の名が張られている事から、昭和60年代ごろまでは、地元の人達によって守られ、信仰を集めていたようである。、この小さなお堂の、歴史的資産を大切に保管され、越前市の宝として守ることを願っています。

調査結果
 深草地蔵堂内の延命地蔵菩薩に、建立年、町名、願主、導師名が陰刻されていることから、享保16年、今から約300年前に、地蔵菩薩は建立され、この時「静誉上人」を導師として迎え、開眼供養が執り行われていたようである。
 明治8年の越前武生市街地地図に久保町(窪町)(現柳町)があることから、江川端に地蔵堂が建立されていたものを、その後、深草の地(清水畑)に移動し、深草地蔵堂が建立されたと考えられる。    移動年について、鰐口に年代(天保12年(1841)、町名蛭子町の銘があることから、この頃すでに深草地蔵堂が建立されていたと考えられ、明治10年、明治13年に再び堂の修理が行われている。
 現在のような地球温暖化による環境の変化は、異常気象をもたらし、いつ何処でなにが起こるかわからない、突如降り出すゲリラ雨による土砂崩れ、川の氾濫は大きな被害を出しているが、地蔵菩薩が建立された頃は、堤防の整備も不備で、ひとたび大雨が降れば、川は容赦なく氾濫して、田畑、町の人びとを苦しめ、多くの犠牲者を出したと考えられる。この御堂もそんな町の人たちによって守られていた。
 越前市への南入口、南1丁目には天保15甲辰年(1845)に建立された飢饉供養題目塔があり、北端北府町にも天保6乙未年(1835)の天保飢饉供養題目塔が建立されている。共に石塔として残されているものはあるが、深草地蔵堂のように、小さな地蔵菩薩を納め 個人を供養しているなど、当時を偲ぶ歴史的資料の発見である。またこの地蔵堂の資料は市、県関係にも残されていないという。越前市は歴史の宝庫として貴重なものが、眠っていることを改めて強く感じた。


posted by 和姫 at 05:56| Comment(0) | 史蹟・神社 仏閣

2014年06月09日

越前市に残る本地仏、第一級品「荒谷観音立像」

写真でみて是非拝観したい、素朴な中に清楚な雰囲気を
漂わせている、観音立像が越前市にある。区長さまのご厚意により
その思いが叶えられた。

 泰澄大師が福井県内に開いた霊山のなかで、特に崇高な越前五山(文殊山・日野山・越知山・吉野ヶ岳・白山)の一つに数えられる日野山。その秀麗な姿は越前富士と親しまれ、紫式部や松尾芭蕉など多くの歌人に詠まれ愛されてきた。日野山は別名、雛が嶽、お嶽山と呼ばれ、神体山として仰がれ、継体天皇が崇拝され、醍醐天皇延喜10年(910年)9月5日『日本記略』には授越前国日野明神従五位下と見え、国内神名帳には従一位日野大明神とある。

標高794mその北麓に、荒谷町がある。
荒谷登山道は。数ある登山道のなかで、風光明媚で起伏に富み、
旧跡が残されているなど、登山者にもっとも愛されているコースである。
この登山道登り口に、日野神社と観音堂がある。
観音堂は享保6年(1721)の『鯖江藩寺社改帳』には「氏神観音堂 長6尺2寸 泰澄大師作
3間四面」とあるが、明治12年の『神社明細帳』には「二の宮」と記されている。
明治41年8月7日には二宮神社が日野神社に合祀、合併している
096.jpg


また、荒谷町の西隣西谷町には「一の宮」があり、10世紀後半の作と言われている
薬師如来坐像が安置され、荒谷町の北隣岩内町「三の宮」には、12世紀代の作と言われている
阿弥陀如来座像と聖観音菩薩が安置されている。
この「一の宮、二の宮、三の宮」の三社は、日野山山頂に祀られている、日野山日野権現の下宮として
置かれていたようで、この三社の仏像は神仏融合のなかから生まれた本地仏とみなされている
毎年例大祭には、この三町内の役員が山頂で篝火を焚き、夜通し御神体を守っている

荒谷町観音立像は県指定文化財になっている。
総高201cm、冠から天衣・持物・蓮台まで桂材の一木から彫られ、
像は、やや右側に傾き、各所に墨書描きが多く用いられ、前面に淡赤色が施されている
左手の五指をまるめて、未敷蓮華の茎を握り、右手は胸前で掌を内側に向けて立て
第一と三指を捻じて蓮に添えられ、その他の指は伸ばしている
未敷蓮華は、悟りをひらく途中の姿だと、学芸員の説明があった
ならば観音さまは、現在もこの地で、我々衆生をいつでも受け入れ、
慈悲の心で、救済し、仏の世界へ導いてくださっている、大きな存在である
076.jpg


079.jpg


072.jpg


082.jpg


057.jpg


同じ地区に居て、神仏に対しての信仰心の違いに驚かされた、今も観音立像は、
偉大な山懐に抱かれ、脈々と信仰心厚い、村々の人たちによって、大切に守られている
と共に、小さな集落にすぎないこの地が、当時いかに栄えていたかが想像できる

posted by 和姫 at 04:23| Comment(0) | 史蹟・神社 仏閣

2014年04月13日

帆山寺の桜回路見事です

ソメイヨシノが散り始めると,一足遅れて、本堂前のしだれ桜が満開を迎える、
本堂までつづく、2本の見事な花の回路を通りお参りする
026.jpg


023.jpg


020.jpg


016.jpg


信仰心厚い慈母は37歳の身重で,毎日山道を超え「多禰の観音堂」帆山寺千手観音に祈り
そして誕生されたのが、曹洞宗大本山総持寺開祖瑩山禅師と伝えられている
昨年、越前市からみた『越前瑩山禅師ものがたり』を書くにあたり調べた、
帆山寺に関しての資料『武生市史』『福井県史』から抜粋して記載

観音山帆山寺(古称 青瀧山円乗院帆山寺)は、当寺第一世真観大徳の草創で、天平元年巳年(729)2月18日、聖武天皇の勅願により藤原房前の詔を賜り、当国今立郡帆山町に於いて七堂伽藍二十社が建立され、境内は縦横三十五町 御供田五千石、旧例の如く諸役免除之有り。また観音遥拝所(現在住吉町帆山寺)十五町四方は、天正19年(1591)木村常陸介より寄進された所である。
その後、信長公の戦火により焼失した後は、現在地(住吉町)に移り府中府中城主本多富正公の帰依を受け、入府の際には立葵の紋の使用が許された。
北陸三十三所観音霊場の八番霊場として、千手観音を本尊とする、天台宗比叡山の末寺である。

亨禄3年(1530)帆山寺の光因なる僧が、勧進僧となって当寺を再建した勧進状が
あるので紹介する
帆山寺の本尊は千手観世音菩薩で、その尊容は泰澄大師の御作である。その御木は、定居元年(611)唐の高僧が来朝する際、日本海上が難波して、海に浮上していたものを拾い揚げた、天竺婆羅双樹の霊木である
長さは五丈三尺であった。56年が過ぎた白鳳10年(670)天人が降下して、二丈五尺の和州長谷寺の十一面観音像が造られた。その後、白鳳23年(693)南都の道昭和尚が、二丈一尺で不空羂索(ふくうけんさく)像を造り、興福寺南円堂に安置した。
残り七尺は、宇治川を渡る際に川面が光明を放ったので水面が明るくなり、和銅7年(714)泰澄大師がこれを拾い揚げ、一刀三礼彫にて千手観音像を一千日後に彫りあげ所願成就した。
養老元年(717)正月18日、夢のお告げがあり、聖武天皇聖暦元年(729)
越前国南都帆山寺に、堂宇三間四面が建立され尊像を安置した。

孝謙天皇天平勝宝年(755)6月1日になって、行基菩薩を導師として供養が行われた。
それより233年後の一条院永延2年(988)には、堂宇が五間四面に改築され、
花山帝の勅命により、天台宗恵心僧都源信が百ケ日参籠を遂げ
法華不断経の勤行を初めて修行した。
さらに一条院正暦)元年(990)天皇の奏上を経て、仏供灯明田十八町が引き募られ、
その後、帆山寺は比叡山の末流に位置付けられた。
このように聖武天皇より後鳥羽院に至るまでの帰依厚く、勅願としての諭旨を賜り
比類のない霊地であった。皇族からの帰依厚く、寺領は高倉天皇御在位嘉暦元年(1169)10月7日 
法華経田十町が寄付され、後白河法皇文治元年(1185)11月1日にも重ねて三町が寄附されている。
さらに七条院建久2年(1191)2月、七条院から三町三段が寄進され、総計十六町三段となっていた。
また.不断経田に就いては、国衙検注および万(ばん)雑公事を停止する旨の院宣が発せられた。
聖武天皇から今ここに至る後鳥羽天皇まで、41代にわたり,聖朝の安全と率土の
豊饒(ほうじょう)を祈る祈願寺である。
霊験新たかにして、その力に頼り深く帰依すれば御利益を与えられ、
その功徳はすべて観音の霊力によるものである。
posted by 和姫 at 21:36| Comment(0) | 史蹟・神社 仏閣

2014年04月09日

本山毫摂寺山門にも「ハート型金具」ありました

味真野地区には、古代から地域独特の文化が栄え、
その地域でのみおこなわれている行事が多い。

4月8日は、味真野地区仏教会主催の花まつり、
甘ーい香が一面に漂う堂内で、お釈迦さまの誕生仏に甘茶をかけお祝した
この日、最後に本山主催の書道展の表彰式があるということで出かけた。
文字の苦手な私と違い、書くことの大好きな2年生の孫は「特選」をいただいた
088.jpg

大きな本堂の屋根を見上げ、孫は「ばあちゃん、瓦何枚あると思う」というが
本山のりつぱな屋根瓦の数は見当もつかない。「ばあちゃん、何万やで」「そうか」
地区の子供は、折に触れ本山との関わりをもち育っていく
自然と仏さまの心が宿っていく、ありがたいことです

ここ真宗出雲派本山毫摂寺(ごうしょうじ)は、南北朝時代に京都賀茂川に架かる出雲橋の辺りに、
親鸞(しんらん)聖人の血脈(けちみゃく)と法燈を伝える寺院としてあったという。
暦応(りゃくおう)三年(一三四〇)京都より越前山本荘(鯖江(さばえ)市神明町)に寄留していたが、
慶長八年(一六〇三)現在地越前市五分市町に誕生したと伝えられている。

宗祖親鸞上人の御木像を中央に安置した、本山布教の根本道場、御影堂は間口二十間四面の
総欅造りで明治17年(1884)の造営
御影堂正面の総門は、総欅造りで、文化8年(1811)に建立された荘厳なもので
屋根には、旧来は赤瓦に笏谷石の鬼瓦がのっていたが、近年の改修により下ろしてある
085.jpg


ここにもありました、府中を象徴する「ハート型の金具」です、
いま、関心をもっている一つです
扉には、何枚もの金具が打たれ、幾何学模様が美しく、江戸時代後期の
手仕事が残されている。
龍泉寺の長持ちの墨書をみてわかるように、越前では打ち刃物に限らず、この様な装飾の金具も
鍛冶職人は作っている
077.jpg


075.jpg


087.jpg

越前を象徴する、「ハート型」町おこしの統一マークとして、「こころ〜心へ」
越前ブランドロゴマークとして使用するのもおもしろいのではないだろうか
そんな夢を抱きながら越前に眠る「ハート」をさがします、

072.jpg


阿弥陀如来の尊像を安置する阿弥陀堂(本堂)の山門には
徳川家葵紋、鯉が彫られている
082.jpg
080.jpg
posted by 和姫 at 12:56| Comment(0) | 史蹟・神社 仏閣

2014年03月16日

越前市帆山寺涅槃会

013.jpg


観音山帆山寺(古称 青瀧(せいりゅう)山円乗院帆山寺)は、当寺第一世真(しん)観(かん)大徳の草創で、天平(てんぴょう)元年巳年(七二九)二月十八日、聖武天皇の勅願により藤原房前(ふじはらふささき)の詔(みことのり)を賜り、当国今立郡帆山町に於いて七堂伽藍二十社が建立され、境内は縦横三十五町 御供田五千石、旧例の如く諸役免除之有り。また観音遥拝所(ようはいしょ)(現住吉町)十五町四方は、天正十九年(一五九一)木村(きむら)常(ひたち)陸(の)介(すけ)より寄進された所である。
その後、信長公の戦火により焼失した後は、現在地(住吉町)に移り府中府中城主本多富(とみ)正(まさ)公の帰依(きえ)を受け、入府の際には立葵の紋の使用が許された。
北陸三十三所観音霊場の八番霊場として、千手観音を本尊とする、天台宗比叡山の末寺である。
                            
                        

この寺は、曹洞宗大本山総持寺開祖瑩山禅師の慈母が祈願した寺である。
信仰心厚い慈母は、毎日山道を多禰(たね)の観音堂に詣でて、子宝に恵まれることを願い祈りつづけた。そんな思いが通じたのか、ある日、光を飲む夢を見てめでたく懐妊し、一層観音信仰を深められた。
「胎内の子が、世のために役立つならば無事に出産できます様に、もし世人に害を与えるならば、我が身と共に滅してほしい」とかたい誓いをたて、毎日三十三卷の観音経を唱え 三百三十三拝の行を自分に課せ、胎内の子の安からんことを多禰の観音に祈願して、三十七歳の高齢で、命をかけての出産であった。
    『越前瑩山禅師ものがたり』より    
IMG_3560.jpg
 
                         瑩山禅師顕彰碑  越前市帆山町に建立                 


帆山寺の本堂左手を入ると 江戸時代初め、松の樹の芯で造られた
等身2m50cmの金箔を施した、釈迦涅槃像が安置されている。
この尊像は、国内でも大変珍しい大きな木造であるという説明文が添えられている
涅槃会が執りおこなわれる本日、尊像の扉が全面にあけられています
尊像の後壁には、お釈迦様の入減を悲しむ、優れた十人の釈迦弟子が描かれている
創建は越前市で古く、多くの歴史が残されている

049.jpg

                     お釈迦さまの入減を悲しむ、釈迦十大弟子壁画

052.jpg

                            釈迦涅槃像
034.jpg

                            お御堂 涅槃図
posted by 和姫 at 16:38| Comment(0) | 史蹟・神社 仏閣

きれいな涅槃団子「おみみ」できあがりました

一晩置いたおみみが、1cm厚みに切られ、山積みされました

005.jpg


P1010073.jpg

おみみ作りの楽しみは、どんな模様が出てくるか、
ワクワクしながら切る、この一瞬にあります
きれいだったり、不本意な形だったり、これだけの数を作ると
でき上がりはさまざまですが、こころを込めて作りました。

067.jpg

おみみの形をした、色とりどりのきれいな涅槃団子が、
5ヶずつ袋につめられ
参拝者に配る1200袋ができ上がりました

袋には @ 焼いて食すれば 開運招福 心身健康
    A 身につければ 交通安全 蛇難消除
    B 財布に入れれば 金運成就 商売繁盛
      の添え書きがある

涅槃団子は地方により、呼び方はさまざまだが、越前市では
「おみみ」と呼んでいる。お釈迦さまの教えを聞く、耳をあらわして
いるのでしょうか。

子供のころ、外遊びの多かったわたしに、
母が身につけていれば、ヘビにかまれないよと言っていたことを思い出します。
子供のころに見た「おみみ」が、今も続けられていることに
あたたかいものを感じると共に、「おみみ」作りに携えることに感謝です
北陸地方は、この涅槃会と共に、春の訪れを迎えます。
明日3月15日・2時から涅槃会が行われます。お参りください
posted by 和姫 at 15:06| Comment(0) | 史蹟・神社 仏閣

2014年03月13日

帆山寺の涅槃団子つくり

雪深い北陸地方では、お釈迦さの亡くなられた日(涅槃会)は3月15日に
行われることが多い。
越前市の古刹、北陸33観音霊場・8番札所帆山寺も毎年3月15日に
涅槃会が行われています

今日は参拝者に配られる、涅槃団子を作りました、
地方によって、お釈迦様の舎利(お骨)などと呼ばれていますが
越前市では(おみみ)と呼んでいます

涅槃団子(おみみ作り)
 
 @ もち粉1合:米粉9合の割合で1升に

 A 大きいボールに入れた1升の粉に対して、沸湯180CCを
   粉の上にまんべんなく注ぐ

 B 熱いうちに粉をご飯しゃもじで混ぜ、あとは手でこねてひと塊にする
P1010061.jpg
 

 C 蒸し器に麻布をひき、こねた塊を握りこぶしの大きさにくだき蒸す
   だんごが透き通るまで蒸す

 D 蒸し上がっただんごを、もちつき機に移す、1升のだんごに対し塩大さじ1と
   好みの色粉を入れこねる。量に注意する うすい上品な色が好まれる
  
 こね加減ををみること 
P1010064.jpg

 E 蒸し上がっただんご3色を重ね、両手の手のひらで延ばしていく
   最後に棒3本でお耳の形を作る

P1010055.jpg


   もち米、うるち米合わせて60キロの製粉された
   真白な粉がこねられ、きれいな色とりどりのおみみができ上がりました
   1晩置き、堅くなったところで切ります
   さて、どんな模様がでてくるか明日が楽しみです
033.jpg


031.jpg



posted by 和姫 at 22:49| Comment(1) | 史蹟・神社 仏閣

2014年03月09日

「ハート型金具」府中城本多館の表門に歴史を残す

初代福井藩主・結城秀康の筆頭家老となった本多富正は、慶長6年(1601)
領主として越前府中へ入封した。
富正はまず、街の整備から着手した、日野川に堤防を築き、街に用水を引きこみ
北陸道を整備し、また、近在から寺院を移転させ、城下にには商人、職人を住まわせ
るなど、街の繁栄システムを構築して、現在の越前市の街並みの基礎を築いた。
富正は、現在の越前市役所当たりに、石垣を築き、掘りを巡らせた館を築き
本多家は9代にわたり、明治までの270年間、府中を支配した。

越前市の市街地の中心地、総社の南隣、浄土宗正覚寺の山門は
旧本多館の表門を移築したもので、城郭門形式の高麗門で
本多家家紋である立ち葵の紋が、正面に2個と側面に2個付いている
221.jpg


山門の屋根の瓦には、笏谷石が用いられているが、残念なことに年数と共に
痛みが激しく、柔らかい笏谷の屋根は崩れだし、歴史的遺産がこのままでは
失われていくのではないかと危惧される。
224.jpg


この山門に取付けられている金具に注目したい。
門には、越前府中を象徴する、鍛冶職人が作ったと思われる「ハート型金具」が付いている。
産地を特定するためにこのデザインが使われたとおもわれ、
全体的に取付金具を見ていると、トランプのダイヤ、クローバーを思わせる
遊び心一杯の、夢多き職人の手仕事の跡が伺える
212.jpg


214.jpg


203.jpg


正覚寺北側には、土塁が残されている。
暦応元年(1338)南北朝時代、この正覚寺の地に構築した、
新善光寺城を本拠とした北朝方の武将斯波(足利)高経と
南条町杣山城を処点とした、南朝方の武将新田義貞軍と日野川を挟み
激しく攻防を繰り広げた戦いは、『太平記』第十九巻「新田義貞越前の府の城を落とす事」に
記されている。
タグ:本多富正
posted by 和姫 at 00:48| Comment(1) | 史蹟・神社 仏閣

2013年11月24日

気比神宮の狛犬さんたち

敦賀駅前、丸海商店へお土産にする、小鯛の笹づけを買いにいった。
行きは、山々が美しく色づいた、今庄経由で敦賀へでた、道案内はナビ、便利になりました。
やはり敦賀へ来たら、北陸道総鎮守越前国一の宮気比神宮へ参拝。

気比さんと言えば、高さ11mの朱漆塗りの大鳥居、正保2年(1645)
旧神領地であった、佐渡国鳥居ヶ浜から桂樹が伐採奉納され造営された。
春日大社、広島厳島神社と並ぶ日本3大木像鳥居に数えられ、国の重要文化財に
指定されている。その堂々とした容姿は、まさに敦賀のシンボルとなっている。

032.jpg


本殿に向い気比神宮の御子神等関係の神々を祀る、九社之宮が鎮座し

境内には神明両宮、気比大神の案内をされる猿田彦神社。

花山天皇寛和2年(986)9月20日遷宮の事が残されている兒宮(このみや)。

敦賀市内、気比大神四守護神の一社として、明治年間、天筒山麓に鎮座されていた
のを、現在の地に移転、稲荷荷神社と金刀比羅神社を合祀した、大神下前(おおみしもさき)神社。

天皇より気比大神宮の司祭と当国の政治を任じられ、政所の地であったこの地に命を祀った、
角鹿(つぬが)神社。
気比神宮本宮の門神と言われている。現在の「敦賀」のもとの地名は「角鹿」で、この御名による。
この様に多くの神様が境内には祀られている。


 この境内の神社に祀られている、笏谷石製狛犬を紹介
角鹿神社の階段の両側に、大きさも、形も異なる、ア、ウン狛犬が安置されている。

ア像は、台座と共に彫刻され、顔は正面を向き、やや上向き、目は大きく見開き
前足を立て、後ろ足を屈して座している。
たて髪は9条あり、顔の横部分では髪を前側にカールさせている
耳小さく垂れ形。尾毛は1条で背に沿わせて立ちあげている。前足の前側に銘文がある

   前左足 亨保十一午歳(1726)
   前右足 加賀屋 正利造立

080.jpg


071.jpg


ウン像は、台座と共に彫刻され、顔は正面を向き、やや上向き
たて髪は9条で、縄状に編んである。頭には小さな角をつけ、
耳は小さい。尾毛は3条にわけながら縄状に背にそって立ちあがっている。
基壇に、嘉永二巳酉歳(1849)の銘がある。この基壇がウンの狛犬のものであれば、
対の狛犬ではなく別物と思われる。

079.jpg


078.jpg


大神下神社の社殿に向って、左側にア、右側にウンの像を配す。
顔は正面を向き、やや上向き、前足を伸ばし、後ろ足を屈して座す。
たて髪は13条で、顔の両側でカールさせている。
尾毛は右巻きの貝状に彫られている。像には銘文がある。

    ア像   背中左側 宝暦七丁丑歳(1757)
                 九月吉日

         前左足前側  加賀屋正徳

    ウン像  背中右側  宝暦七丁□歳(1757)
                 九月吉日

         前足右前側  加賀屋正徳
066.jpg


067.jpg


土公(どこう)
天筒山の方角を拝し、神宮北東部に残る「土公」は、気比大神宮降臨の地とされている。
神宮創祀は2000年の神代にさかのぼり、当時の祭神を土公の地で祀ったといわれ、
現在、土公は神宮の古殿地として手厚く護られ、聖地となっている。

この前に一対の狛犬を配している。ア像を右側に配し、台座と像を一石造りとしている。
顔は正面のやや上を向き、前足を立て、後ろ足を屈して座している。タテ髪は扇を
広げた様に彫り、前足の後ろ外側に施毛してある。尾毛は三条にわけ
中央を太く立ちあがらせてある。基段の正面に「蒲生氏」と、
右側面の前方に「享和元年(1801)辛酉八月」の陰刻銘文がある。
ウン像の大きさ造りも、ア同様で、基壇正面には「蒲生氏」が陰刻されている。

061.jpg


053.jpg


063.jpg


明日は、「奥の細道」の旅で、気比神宮を詠んだ俳人芭蕉の碑を紹介します
タグ:狛犬
posted by 和姫 at 21:00| Comment(0) | 史蹟・神社 仏閣

2013年11月18日

道元禅師が越前入国した最初の寺・妙覚寺

ご縁があって、越前市中心から南へ8キロ、山に囲まれたきれいな水の湧き出る
小さな集落越前市上小松町、尊厳山妙覚寺を訪れた。
道元禅師が山深い妙覚寺を訪れた道は、当時「古代北陸道」「塩の道」と呼ばれ
ホノケ山(736)を超えると、越前海岸河野にでる。日本海岸で製造された塩は、
敦賀市元比田から河野、菅谷峠を通り瓜生野から越前府中や味真野に運ばれ、
府中へ入る最短距離として使用されてきた。この道路沿いに鎮座する
大塩八幡宮の名前の由来も、塩と関係が深いようで往時の歴史を物語っている。

妙覚寺は、寛元元年(1244)道元禅師が越前へ入った最初の寺と言われている。
ここに、真言宗二百余坊の堂塚と二十五宇の別院が建立されていた。
土地の豪族梅田氏は道元禅師に帰依して、真言宗から禅宗に改宗した。
この時、道元禅師は妙覚寺鎮守勧請文を撰し、御自像と十社権現を自らが彫られ、
その木像は、梅田氏の庭の梅木で刻まれたと伝えられている。
道元禅師御自作の「生身の尊像」は大正時代に入り、禅師のご誕生地
京都市伏見へお帰りになった。

堂内、祭壇中央には本尊釈迦牟尼仏が安置され、新しく安置された道元禅師坐像の脇に、
高さ40cmくらいの古い仏像が安置されている。
細い線刻が全体に施され、お袈裟をまとわれたその尊像こそ
道元禅師が自ら彫られた「生身の尊像」ではないかと、時代を感じ、温かみを感じた。

065.jpg

      「お袈裟をまとわれています」
090.jpg


ご住職の御好意で見せていただいた、天福元年4月O日(1233) 
道元禅師御真筆、十社権現勧請文は木板に文字が線刻されているが、読取り難い。
宝暦4甲戌歳(1754)6月 開祖道元禅師の真筆であることを証明した、
当時の妙覚寺住持の墨書きした、木箱のなかに納められている。
この様に保管されている貴重な品は、真贋かどうかの鑑定をうけ、もっと
大切に管理することはできないのだろうか。それともすでに鑑定を受けている
のか、聞いておけばよかった。

108.jpg


079.jpg


100.jpg

    「道元禅師自作・十社権現 左側一体は違うものが置いてある」

  
寺から少し山道を登った所に、道元禅師の無縫塔、二代吟龍住職の建てた
初代と思われる墓が年月を経て建立されていた。
008.jpg


今日は開山忌で、村の人たちがお参りに来ていた。しかし寺の檀家は1軒しかないというが
信仰心篤い、山寺の雰囲気漂うこの寺を村中が守っている。
最盛期をむかえた紅葉が、谷間を彩り本当にいいお参りをさせていただきました。
ありがとうございます。




posted by 和姫 at 00:00| Comment(0) | 史蹟・神社 仏閣

2013年11月17日

県下最大級・大屋穴地蔵

大屋集落の裏手、村国山の麓にある、県下最大級の横穴式石室。
地元では「石御堂」と呼んで大切に守られている。
大屋穴地蔵の入口は、人が屈んで通れるくらいの大きさだが、
石室内は広い(石室の長さは655cm、幅190cm、高さ310cm)
岩には「越前国今南西郡大屋 願主真柄民部之丞光家(当時36歳)
明応十年(1501)6月24日の銘と共に、線彫で彫られた
延命地蔵尊が描かれている。
明応の頃、朝倉氏の客将として敗れた光家が、この岩屋に隠れ住んで
自分の守護神地蔵菩薩を刻み、再起を願ったと伝えられている。
(備考)
 平安時代末期までに、条理により郡内は今南東、今南西
今北東 今北西と四分されていた。穴地蔵は今南西郡に属している。

025.jpg


015.jpg


013.jpg



タグ:古墳
posted by 和姫 at 01:13| Comment(0) | 史蹟・神社 仏閣

2013年11月06日

幸せとはなに、その秘訣教えます!大野黒谷観音堂

大野市まで来たので、友人と2人、国生山佛性寺黒谷観音へお参りして帰ることにした。
寺の下へ車を止め、山門をくぐる道を選び歩いた。静寂のなかに樹齢何年だろうか、
寺の歴史を物語るように、大きな杉の参道はきれいに掃除され、苔が美しい。
この寺の創建は古く、807年平城天皇の夢のお告げにより、京都黒谷から、
この地に移転して、十一面観世音菩薩を安置して本尊としている。
この観音さまは秘仏とされ、平成21年、あと8年後に御開帳され、その尊像を
拝むことができる。その日が待遠しい。
097.jpg


本堂には、大野藩主からの帰依篤く、第二代土井利治公から 奉納された絵馬が
多く掲げられている。

124.jpg


119.jpg


120.jpg


114.jpg


参詣の帰りに、奥さまの「どうぞおあがり下さい」の言葉に甘え、上がらせていただいた。
思わぬことに、御住職は糞掃衣を自らが縫っておられた。
若き日、糞掃衣を縫いながら、全国行脚された経験をもち、永平寺承陽殿のご尊像の
お袈裟もすべて縫われたという。真心で縫われたお袈裟、本当に頭が下がります。

142.jpg


御住職さまは80歳、坐禅三昧の生活で、真の禅僧の雰囲気を漂わせている
はじめの内は緊張で、ハラハラ、ドキドキでしたが、気さくに話しをされ、
糞掃衣とは何か。何枚も自らがもっておられるる糞掃衣を奥寄りとりだされ、説明していただいた。
同じ糞掃衣を縫っている者同士、通じ合うものがあり、ついつい話が弾み
長居させていただき、貴重な話をたくさん聞かせて頂き友人と2人、
感激と感謝、胸いっぱい幸せな気持ちで山を降りた。

posted by 和姫 at 22:26| Comment(0) | 史蹟・神社 仏閣

2013年11月03日

越前龍泉寺で語り部デビュー?

語り部の経験のない私が、経験豊富な福井語り部35名の
案内をしてほしいと、友人である語り部さんからの依頼を受けた
どうしょう、ちゅうちょしている私に、彼女はポンと背中を押してくれた
次のステップへ上がるためにも、この道を通らなければ上れないよ
もっともだが・・・
口下手の私にとって、大変苦痛なことで、思いの半分も伝えられないのが現状だ。

今回、越前市への訪問の目的は、関ヶ原の戦いで勝利し、
67万石を与えられ、越前北の庄に入府した
徳川家康の次男、結城秀康の付家老として従い、6万7千石を与えられ
越前府中へ入府した領主・本多富正の足跡を訪ねての勉強会。

この時、ご案内するための資料を作成した

 本日は、本多家菩提寺龍泉寺へお越し頂き誠にありがとうございます。
ご案内をさせていただきます○○と申します、よろしくお願い致します。
皆様の前でこの様に話しをするのは、初めてのことで、
うまく御案内できるか、足は震え、心臓が高鳴っています。
どうぞ、皆さまの温かい心で見守って頂ければ、大変うれしく思います。
また資料を見ながらの説明をお許しいただきたいと思います。

慶長6年(1601)、富正は3万7千石を与えられ府中領主に任じられると、
龍泉寺の輪番住職213世、福井孝顕寺開山舜国洞授(心月円光)に帰依して
龍泉寺を本多家の菩提寺と定めた。
福井藩と龍泉寺は密接な関係を持ち、2代目藩主忠直から6代目藩主綱昌に至る、
5代の藩主から、土地の寄進を受け1万4千坪となり、江戸初期以来、
越前市では一番大きな寺領を持っている。
この様にして龍泉寺は「殿さまの寺」として明治維新を迎えるまで発展してきた。

「山門」
明治初年に、府中奉行所の表門を移築したもので(城郭門形式高麗門)
正面に禅寺にふさわしく「空に内外無し」瑩山禅師の言葉が掲げられています。
龍泉寺は、江戸末期まで通幻派の根本道場として七堂伽藍が建っていたが、
版籍奉還により、檀家本多家の財政は苦しくなり、
明治5年、庫裡のみを残し解体整理された。

庫裡は越前赤瓦の屋根で(長さ21間半 奥行8間半)と大きいもので
建立の年代は、記録によるとは文化11年(1814年)
江戸後期に茅葺吹き屋根から瓦屋根に換えていることから。
江戸初期か中期に建立されたと思われる。

御案内致します
第一関」 
中国福建省の僧 為霖道濡禅師の書
修行僧が本山(永平寺や総持寺)へ上山するときは龍泉寺で一定期間修行しなければ
本山入門を許されないという意味で、当時50〜60人の修行僧がいて生活していた。
食事を知らせる魚板、 雲板  大笑い看板 など当時を偲ぶものが残されています。

「くるま付き長持ち」
独住10世 紹賢仏国和尚の持ち物で 
横に上市 鍛冶屋・・・鍛冶屋職人の銘が有り、
武生の金具の特徴をあらわす、ハート形金具であることから、
これは越前で作られた長持ちである。


「本堂」は、現在の住職の父、独住29世栄章和尚によって
昭和50年落慶している。
長年の願いを叶えた住職は、翌年逝去されています

本尊 釈迦牟尼仏は桧材、寄木造りで 室町初期の作といわれ
光背の十二光仏には、本多富正公が新しく添えたもので、墨書がある。
脇侍は獅子に乗った文殊菩薩と、像に乗った普賢菩薩で
両像共、結城秀康の33回忌にあたり富正が寄進したもので、
日本能面制作の第一人者 出目満照の名跡を継いだ、
越前の仏師出目幾斉の作です。
「右開祖通幻禅師坐像、中央は通幻禅師の師匠総持寺2世峨山禅師坐像」、
普段は霊光殿のなかに、舜国和尚の坐像と共に、三木像が安置されています。

総持寺2世峨山禅師と舜国像は共に彩色が施こされ、
像のなかに「慶安二年(1649)七月廿日 出目幾斉」と墨書きされています。
本多富正がこの木像を奉納した十八日後に、没している事から、
この二木像は死を覚悟した富正が、出目幾斉に造らせたと思われる。
いずれも市の指定文化財になっています。

「本多富正はじめ本多家歴代の位牌」
「本多富正公の位牌」
位牌は高さ110cm 幅28cm
戒名は「普照院殿従五位下元覚正円大居士」

「富正家臣の合同位牌」久世騒動、 大阪冬の陣、夏の陣で討ち死にした、
合計25名の家臣たちが祀られている。
ちなみに、大阪夏の陣以後明治維新まで約250年間
戦乱による府中藩士の犠牲者は出ていない。

金色の位牌「結城秀康位牌」
孝顕寺へ埋葬された時の戒名。

「結城秀康と殉死の家臣の肖像画」(秀康の葬儀の導師を勤めた舜国洞授が添書きを書いている)
慶長12年初代藩主秀康(34歳)が死去すると、
家臣土屋昌明と永見長次両家臣は33歳と24歳の若さで殉死している。
本多富正は、15歳から秀康に仕え、忠勤に励んでいたので、
将軍秀忠は富正の追腹を予測したのでした。
特に、国家老富正を失うことは福井藩のためにも、
また当時、大阪城の豊臣方と対峙していた徳川幕府のためにも、
おおきな打撃となることを恐れ、将軍秀忠は、先手を打ち、
「生きて、幼い2代藩主忠直(12歳)と越前国を支え守るように」との黒印状を送っている。
その後、家康から送られた黒印状はもつと厳しく
「越前は重要な土地であるから、秀康に仕えた者は、追腹を切ることは許さない。
もし、追腹を切るものがいれば子々孫々まで、お家を断絶する」と
富正や家臣の殉死を固く禁ずるものでした。
こうして秀康の葬儀や、引き継ぎ処理を終えると、
富正は藩主忠直に同行して将軍秀忠に拝謁しています。

慶長16年(1611)、富正に従5位下伊豆守が与えられました。
この年、藩主忠直に、将軍秀忠とお江の娘、勝姫が10歳で嫁ぎ、
途中富正の越前府中城で休憩して、化粧を直し、福井へ向かっています。
しかしこの慶事の翌年、久世騒動が起き、
富正は国家老としてあわや改易となる藩の一大事を切り抜け、
また 大阪夏の陣には、本多富正軍は「大阪城一番乗り」の名乗りを挙げ、
その証拠として千鳥の屏風を持ち帰るなど、勇猛な武人として、
徳川300藩の家老のうち5本の指に入る、活躍をみせています。

富正の福井藩や府中における功績は数々あり
府中において富正が入府した当時は、戸数は500戸を数えるばかりでした。
まず富正は、日野川の河川に、堤防築き水害を防ぎ、
町中に用水を巡らせ生活の便を計り、街の真中に北陸道を通し、
町並みを整備し、越前打刃物や羽二重織物など地場産業の振興に努める一方で、
領民には荒地でも栽培しやすい「そば作り」を奨励しました。
大根おろしと汁だけのシンプルな「越前おろしそば」は武生の名物になっています。

富正は自分の領地だけでなく、福井藩領においても、九頭龍川の堤防を整備し、
400年経た今も、福井市内を流れる「芝原用水」は、
主要な農業用水として現在も利用され
堤防は富正の隠居後の名を取り「元覚堤」と呼ばれ残されています。
この様に、武生の町づくりの基礎を築き、福井藩を支えた富正は、
慶安2(1649)年8月12日 府中城で78歳で没しています。
当時の藩主松平光通公は、音楽を鳴らす事を国中に7日間禁止したといいます。

本堂両壁には松山幾三郎「府中の里」が描かれている。

「徳川三木像」
入口の額「徳崇詞堂」は徳川16代徳川家達の筆による。

寛永11年(1634)7月、三代将軍家光が上洛の折、
富正も主君松平忠昌に従い上京し、徳川家康、秀忠、結城秀康の三木像を安置することを、
家光の許可を得て、京の仏師に彫らせ、龍泉寺に運んだものです。
富正は今庄まで三木像を迎えにいったといわれています。

いずれも桧材 寄木造り 高さ約1m、すそばり1.5mで巾子冠を戴く束帯姿です
なぜでしょうか? 秀忠の木像だけ製作者が違っています。
この三木像が揃っている所は、全国になく、大変貴重なものです。
NHK大河ドラマ 「江」「戦国の女たち」で、全国に巡回展示され好評を博しました。

右  徳川秀忠公
中央 徳川家康公
左  結城秀康公


「成仁の碑」
明治2年版籍奉還で福井藩主松平茂昭は華族に列せられたが、
武生領主本多副元は士族に留まり、これを不満に思った、
僧侶、旧家臣、町衆など、千数百人が騒動をおこた。
この結果、百数十人が捕えられ、15名が処刑、牢死している。
明治10年本多副元は15名の犠牲者を哀慕してこの石碑を建立した。
新田次郎は、短篇小説「河童火事」のなかで武生騒動」を書いています。
1977年 (昭和52) 毎日新聞社


「護墳之碑」
禄を離れた本多家のため、旧家臣一同と旧領地43町村が永久に墓地を守るとして、
毎年米13俵を寺に奉納することを約束した記念の碑です。


「本多一族の墓地」
500坪の墓地には、本多富正から現在12代まで
約400年間の、一族46基の墓が祀られている。

初代本多富正墓   
富正公墓  基礎から最上部まで高さ4.4m  
笏谷石の五輪塔です
正面 空風火水地
     普照院殿従五位下元覚正円大居士  という戒名と
 裏面  越前府中城主本多伊豆守藤原富正朝臣      
 丹波守 晩年豪
     元覚正円寿 七十八歳逝去
           慶安二年巳丑八月十二日

二代昌長の墓
越前の夏祭り、かわっさん祭りでおなじみ、河濯大権現を信仰し
、社地神殿を寄進 境内に7本の杉をお手植えされ、350年の時を経て
、胴まわり4mになり、今も残されています。

三代長員の墓(二代昌長の子)
「ときわ元禄15年12月14日、江戸は本所、松坂町、木良上野介の江戸屋敷・・・」
といえば皆さんご存じ、赤穂浪士の討ち入りですね。 (1702年)
この東隣が本多家の江戸屋敷だったんです
この時の殿さまは三代目長員でした。
義士を助けるため、本多家では高張り提灯で上野介の屋敷を照らし協力したことは、
有名な話です。
赤穂浪士の討ち入りは、太平の世を揺るがす大事件でしたが、
この成功の陰には本多家が大きく関係していました。
また(義士47士の中の長老、堀部弥平衛の妻は本多家臣忠見元右衛門の長女)です

四代長教(松平綱昌の子)
左1番 富正の長男(主膳富重)
左3番 富正の妻 泰雲院の墓


また、龍泉寺に葬られているのは、富正公以来、歴代の領主とその家族のみに限られ
、側室、分家などは市内の五ヶ寺
陽願寺(父、母) 龍門寺、連尚寺、金剛院、正覚寺などにあります。

この様に、一族の墓が祀られているのは全国的に珍しく、
歴史的資産を利用した、越前の町づくりに利用してほしいと願います。

これで本多一族のご案内を終わらせていただきます
皆さまのご協力により、ご案内を終えることが出来ましたことを感謝申し上げます。
この機会を与えて頂きました。会長さま、福井語り部の会さまに
厚く御礼申し上げます。
 私自身、今回の経験を生かし、次なるステップに進みたいと思います。
どうかこれからもご指導、ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします
最後になりましたが、会の益々のご発展と皆さまの健康を御祈念申し上げ、
お礼の言葉とさせていただきます。本日はありがとうございました。


参考
結城秀康 慶長十一年 4月8日 34歳で死去

新田次郎(1219−1980) 気象学者
河童野火事の中 短篇小説「武生騒動」
中央気象台に就職 富士山観測所勤務
山岳小説の分野を拓く  歴史小武田信玄」「新田義貞」1981年 文芸春秋社

京より来た、家臣金子権衛門の発案により
武生名物「越前おろしそば」となっている。

本多富正の生涯をみるとその交流の深さに驚く。
15歳のとき大阪城における豊臣秀吉、石田三成を
はじめとして、徳川家康、秀忠、家光の 3将軍から深い信頼を得ていた。


文化人としても寛永7年(1630)富正の依頼により大納言烏丸光広は、
「西行法師行状絵図」4卷を俵屋宗達に模写させている。
福井藩領の治世では福井藩筆頭家老として久世騒動を乗切り、
  九龍川の治水事業(元覚堤 芝原用水)
  鯖江鳥羽野の開拓
  産業、交通の振興
  府中町用水や農業用水の整備
  社寺の保護

福井藩 4代とは 秀康 忠直 忠昌 光通
16代 松平慶永  17代 茂昭

慶長6年7年には、多くの寺が結城から寺基を移している

文化人としても優れ、天皇家所有の『西行物語絵図』の
模写複製を公家烏丸光広に依頼し、その挿絵を町絵師・俵屋宗達に制作させ、
結城秀康公のお姫さまの、結婚調度品として毛利家に持参し、現在重要文化財となっています。


今回、本多富正を調べる中で2つの疑問にぶち当たりました

疑問@
1つ目は、なぜ舜国和尚が、福井孝顕寺と龍泉寺の住職を同時期にしていたかということです?
結城秀康は慶長6年7月越前に入国すると、福井孝顕寺を建立し、茨城県結城よりつれてきた、舜国を開山に迎え、結城家の菩提寺と定めています。
当時、越前曹洞宗の触頭、(触頭とは、幕府や藩の寺社奉行の下で、任命された寺院で、地域内の寺院、僧侶の統制を行っていた寺という意味で。)
この触頭をしていたのが孝顕寺で、永平寺末寺、総持寺末寺も支配していたことから、龍泉寺の住職に舜国を住持させたのではないかと思われます。

疑問A
富正の父重富は、徳川家康の長男信康付の家臣でしたが、信康切腹後に責任を取り自刃。富正は以降叔父の重次(一筆啓上火の用心、おせん泣かすな、馬肥やせの作左衛門)に養育されたといわれていますが、陽願寺に父、母のお墓があることから、富正の越前入国以降の父重富の生存を示すものでしょうか?
陽願寺は浄土真宗本願寺派です

結城秀康   慶長6年7月    北の庄城入城 
本多富正  慶長6年 ?     府中領主
秀康  慶長11死去

龍泉寺は総持寺二世峨山禅師の弟子、死んだ母親から誕生したという「あめ買幽霊伝説」が
伝えられている。通幻寂霊禅師によって開かれた。曹洞宗大本山総持寺、36御直末の古刹、



posted by 和姫 at 11:36| Comment(0) | 史蹟・神社 仏閣

2013年10月24日

糞掃衣作りは魅力がいっぱい

龍泉お袈裟を縫う会は、今年で8年目を迎え、会員15名で作業が行われている。
1年に1枚のペースで出来上がり、時間がかかる手仕事で、今回の慈眼寺さまの
糞掃衣で9枚目となった
010.jpg



若き道元禅師が留学した宋国景徳寺僧堂では、修行僧が坐禅を始める前に、深々と
合掌して頭上に袈裟をのせて「大哉解脱服 無相福田衣 被奉如来教 広度諸衆生」
(大いなる解脱の服 すべての執着を離れた袈裟 それは如来の教えをいただき、諸々の
衆生を救済せん)と塔袈裟の偈文を唱え袈裟を着けていく姿に驚き、袈裟の正しい教えに
巡り会えた喜びに、普段感情をあらわさない禅師が喜びの涙を流したという。
それ以来、袈裟に帰依した禅師は、お釈迦様より正しく伝えられてきた袈裟と仏法を伝えたい
と、自らに誓い日本に帰ってきた。

糞掃衣とは、掃きだめいらなくなって捨てられる様な、人の惜しみのかからない布地を
きれいに洗い、丈夫なところを切り取り つなぎ合わせ一枚の大きな生地に仕立てていく
生地の色は壊色とよばれる「ねたみ」「おごり」など迷いのこころを起さない色を用い
縫製は返し針(却刺縫い)でほつれない様に丈夫に縫われる。
糞掃衣は欲望から離れ、質素を旨とする曹洞宗では、最も優れたもの、尊いものとして
仏身ととらえ、正伝の仏法とともに師匠から弟子へ伝えられていく。

庫裡での作業は静けさの中で進められる、1針1針こころをこめて丁寧に縫っていく
縫い方の上手、下手は問わない。出来上がりの美しさを追求するより、こころに響く
お袈裟作りをこころがけている。
相手を思いやり寄り添うことの大切さ、ありがとう、おかげさま、ごめんなさいと口に出る
感謝のこころ。人としての生き方をお袈裟作りを通して教わることは多い。
posted by 和姫 at 23:13| Comment(0) | 史蹟・神社 仏閣

2013年10月23日

糞掃衣奉納に天真自性禅師開祖・今庄宅良慈眼寺へ

瑩山禅師によって開かれた、総持寺は後を継いだ第二世峨山禅師によって、広く全国へ発展する基礎を築かれた。
その門下からは「五哲」「二十五哲」という俊僧が育ち、瑩山禅師の教えは能登門前の地より全国へ伝播していき総持寺は大きく発展していった。
その「五哲」のなかでもっとも活躍したのが、通幻寂霊禅師である。
120.jpg


023.jpg


今日は、通幻禅師の「十哲」のうち、福井県に寺院を開いた第6番目の弟子
天真自性禅師の600回遠忌にあわせ、南越前町宅良・慈眼寺方丈さまに
15条遠山糞掃衣を奉納するため会員11人で訪れた。


035.jpg
天真禅師(?〜1413)は奥州守護藤原氏の家にうまれた。
幼少より智慧と勇気をもち、武士の道を歩んでいった。
時は南北朝時代、しはし戦場に赴き功をあげるが、次第に世の無常を感じようになり
仏道の道を歩んでいく。
ある日、禅僧永嘉真覚大師の「証道歌」のなかの「法身を覚了すれば無一物
本源自性天真仏」(自分を見極めればなにもない もともとそのまま仏のすがたであるを聴き発心して、
武士の身分をすて、越前龍泉寺の通幻寂霊禅師に参禅じた。
この時、禅師は42歳になっていた。典座職の大役を担い、日夜坐禅弁道して日々修行に励んだ。
そんな天真禅師の姿をみて、師匠が近づき声をかけた「修行に励んでいるようだが
、その心境はどうだ」と問うと、天真禅師は「わたしはまだ、生まれたままの鉄でございます」と答えた。
その問答に師匠は、天真禅師の修行が達したことを認め嗣法した。
十二年間の龍泉寺での修行を終え、再び行脚の旅を続けていた禅師は、嘉慶元年(1389)
山深い今庄宅良の地に魅せられ、ここに寺院を建立することを決めた。
寺を建立するため地面を掘ったところ、地中より金色の十一面観音菩薩が出てきたので、本尊として安置して、寺の名を「普門山慈眼寺」とした。
その後、丹波永沢寺7世、龍泉寺6世の輪住を勤め、武蔵(埼玉県)に竜淵寺を、大隈(鹿児島県)に
楞厳寺を開山するなど、全国的に教線をひろげていった。
晩年、再び慈眼寺に戻ったが、病いを得て、応永二十年(1413)1月13日早朝、豪雪地に建つ
慈眼寺のやねには積雪があった。凍てつく道場で、争うことを嫌い、
人間として生き方を模索しつづけ、そして極められた禅師は、坐禅をしたままのすがたで遷化された。
天真禅師は弟子の育成に力を注ぎ、優れた弟子4哲を輩出した。その弟子たちが全国に下って、
曹洞宗の教えを広め、慈眼寺の末寺は1200余ヶ寺となった。





posted by 和姫 at 23:34| Comment(0) | 史蹟・神社 仏閣