2014年11月03日

『越前瑩山禅師ものがたり』見聞録A 瑩山禅師御誕生仏

この本に掲載した写真は、7年の年月をかけて、1部の資料を除き
現地へ出向き撮影したもので、私にとってすべてが懐かしく、
当時の思いがよみがえってくる。
 本の中には、240枚の写真を掲載してあるが、それほど多いと感じないが、
思えばそれの 何倍も何十倍も撮っていたことになる 驚きだ。

瑩山禅師御誕生仏
 曹洞宗総持寺開祖瑩山禅師のお母さんが祈願に訪れた、多禰の観音堂は、
当時村国山の中復に、建立されていた。創建当時、峰には松柏が青々と茂り、麓には
洪々として深淵が広がり、浄土を思わせる霊地であつたという。
その後、織田信長の戦火にあい、現在地、越前住吉町に移転している。
 この誕生仏は、宝物殿に保管されている物を、わざわざ見せていただきました、
涼やかなお顔の誕生仏です。

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帆山町瑩山禅師石碑に寄り添うように立てられている.
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瑩山禅師の慈母「孝養の碑」
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2013年12月15日

「赤穂浪士討ち入り」と府中本多家江戸屋敷

「時は元禄15年12月14日、江戸は本所、松坂町、吉良上野介の江戸屋敷・・・」といえば皆さんご存じ、赤穂浪士の討ち入りです。
12月2日から宮内庁ホームページにて、赤穂浪士の吉良邸討ち入りに関する
資料6点などが初めて公開された。
 討ち入り事件は、江戸城内で吉良上野介に切りかかり
切腹となった赤穂藩主浅野内匠守の仇討のため、大石内蔵助はじめ、
赤穂浪士47名が吉良屋敷を襲撃した事件である。

この東隣が本多家3代目孫太郎長員の江戸屋敷だったのです。
公開された吉良邸見取り図には、討ち入り時の、各義士の位置が
赤字で記されている。東表門近くに内蔵助が、西裏門には、
義士47士の長老、堀部弥兵衛金丸の養子堀部安兵衛が陣取ている。

堀部弥兵衛の妻は、本多家家臣、忠見元右衛門の長女で、
親子2代、本多家とのつながりをもっていたため
吉良邸の様子や赤穂浪士の動向が手にとるようにわかっていたのです。

『赤穂義臣伝』には「堀部方より指し越したる絵図に、引き合わせ
ともに書き入れける・・・」とあり、堀部親子が忠見家を通じ情報を入手したようで
邸内の様子も細部にわたり調べてあり「夜ごと寝間は移し替えられる様で、
朝になると女中が水を南の間へ運んだり、北の間へ運んだりしている。
夜の行灯もいろいろな所へ運んでいるので要注意」など
邸内の様子がてにとるようにわかる。
討ち入りは15日午前4時、義士を助けるため、本多家では高張り提灯で
上野介の屋敷を照らし協力したことは、有名な話である。
赤穂浪士の討ち入りは、太平の世を揺るがす大事件でしたが、
この成功の陰には本多家が大きく関係していたようです。

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 本多一族菩提寺、越前市龍泉寺に建立されている、本多家3代長員(ながかず)の墓
幼名孫太郎 寛文九年(1669)3月7日 昌長の4男として府中で誕生
同年父の逝去により、0歳にして家督を継いだ。亨保2年(1717)正月23日
49歳で逝去。戒名は護法院殿慈眼正慧大居士
初代富正、2代昌長の墓は、高さ約5mの五輪塔でできているが、3代目長員の
墓はグット小さくなっている。

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2013年11月22日

越前瑩山禅師ものがたり 見聞録@

今回、出版した越前瑩山禅師ものがたりに記載されている
各神社仏閣など、ご案内していきます。

はじめに
 新雪を踏み小さな僧庵へ至る坂道を登り、板橋興宗禅師にお会いしたのは、平成二十年の新春早朝でした。
 その頃、瑩山禅師誕生地近くに、御誕生寺法堂建立を発願されて設計にお忙しいなか、私が帆山(ほやま)町の住人ということで、瑩山禅師の話をされて、。書棚から一冊の厚い東隆眞著『太祖瑩山禅師』を取り出され、渡してくださいました。それには赤鉛筆でいくか所にも印が引かれ、禅師さまの探求心の深さと、心のぬくもりが伝わってきました。私も地元の人間として瑩山禅師を求めてみよう、そんな思いに駆られたのも、禅師さまのなに人も平等に受入れてくださる、広くあたたかい心にひかれてでした。    歴史を紐とくと、瑩山禅師は慈母の観音信仰によって、仏の申し子として越前市帆山町で誕生しました。幼少のころ、祖母に手をひかれ永平寺第三世徹通義介禅師の門に入り僧となられ、お釈迦さまより道元禅師に相続されてきた「正伝の仏法」を受継ぎ、加賀大乗寺第二世、能登永光寺開山、曹洞宗大本山總持寺を開創され、曹洞宗は全国に約一万六千ヶ寺の末寺を有す大教団に発展しました。その礎を築かれたのが郷土の大先覚者である瑩山禅師です。
 昭和四十四年一月、大久保道舟博士の綿密なる史実考証の結果、この帆山町が瑩山禅師御誕生の地と總持寺より証明され、この地に顕彰碑が建立されています。瑩山禅師が帆山町で御誕生されて、七百年以上過ぎた今日、町内には歴史的史実として残されているものはありません。
 そこで、南北朝時代に後醍醐天皇の皇子二人を奉じて、越前国に下向した新田義貞に従い、金ヶ崎城の戦いで敗れた瓜生保が瑩山禅師の後裔と伝えられていることから、顕彰碑裏面にも記載されている、豪族瓜生氏の家系図を基に、新しい方向から瑩山禅師を探ってみました。
瓜生氏は嵯峨天皇を祖とし、初代種は承久の乱に敗れ越後に退去、その後、子孫が越前国に再び戻り、越前南条郡杣山に城を構え居住しています。
 今回、資料として、○○○○○を主軸に、瑩山禅師を一考察してみました。
前半では瑩山禅師の御生涯、尊師方、高弟、及び通幻禅師「十哲」のうち、越前国で寺院を開いた「五哲」を取上げ、後半では誕生地帆山町、多禰の観音帆山寺、瓜生一族を地元の目線で見てみました。
御誕生寺板橋禅師との出会いにより、こころを大きく揺り動かされ偉大な瑩山禅師にお近づきできましたことを、尊いご縁と感謝し大きな喜びとするところです。


 瑩山禅師御生誕七百年記念事業の一環として、昭和四十四年六月十三日に「瑩山禅師御誕生地顕彰碑」は越前市(旧武生市)帆山町に建立された。
 紫雲台貎下(しうんだいげいした)御親修のもと、武生市長、地元関係者約五百人の参列をえて、落慶除幕式が、梅雨時にはめずらしく快晴に恵まれ、盛大に執り行われた。
 碑は高さ五メ―トル、幅一・六メートル、厚さ四十センチ、玉垣に囲まれた、約五十平方メートルの台上に立ち、見上げるばかりの壮大なものである。建碑工事代金は、当時六百九十万七千円であった。
 この彰顕碑建立によって、太祖瑩山禅師の誕生地は帆山町と認められた。

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碑文
 禅師ハ西紀一二六八年十一月二十一日越前国多祢邑瓜生家ニテ生ル、観音信仰厚イ母堂ハ「胎内ノ子モシ将来世人ニ益スルナラバ守ツテ産安カランコトヲ、モシ世人ニ害アラバワガ身ト共ニ滅バンコトヲ」ト仏前ニ願ヲ掛ケ毎日三十三卷ノ観音経ヲ唱シ、三百三十三拝ノ行ヲナシナンナク安産 行生ト名付ケラレル、名ノ由来ハ観音堂屋敷内ヲ歩行中ニ誕生セシ故ニテ仏台座ニ生髪ト臍尾ヲ中ニ容レテ納ム、長ジテ学徳兼備行解相応ノ大禅匠ト成リ、後醍醐天皇ノ篤キ帰依ニ依リ 開山ノ能登総持寺ハ日域無双ノ禅苑、曹洞出世ノ道場、ヨロシク南禅第一ノ上刹ニ相並ビ紫衣法服ヲ着シ宝祚ノ長久ヲ祷リ奉ルベキモノ、天機カクノ如シ」論旨ヲ下賜サル、即チ勅定ニ依リテ 曹洞宗ヲ称シ大本山ヲ制シ、宗団構成ノ礎ヲ築キ現在大宗派タル基ヲ開ク、コノ功業ヲ偲ンデ、昭和四十二年禅師御誕生七百年ノ慶事ヲ迎ルニ当リ誕生地武生市民並ニ本山縁故者有志ノ協力ニヨリコノ縁由ノ地ニ報恩彰ノ碑ヲ建立シ以テ永クソノ恩徳ヲ讃ウ
  昭和四十四年一月十日

      大本山総持寺独住第十九世
        勅賜正應天真禅師 絶海勝俊撰       
         
                        紫雲室待者 林泉庵 黒杉道印謹書                                        
              
                                (越前瑩山禅師ものがたりより)





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2013年11月18日

間違いありませんか瑩山禅師さま

先日出版した曹洞宗大本山総持寺開祖『越前瑩山禅師ものがたり』が図書館の
仏教関係のコ―ナ―に、偉い先生の隣に置かれてあった。
自分の本が置かれてあるのは、気恥ずかしいやら、うれしいやら複雑な気持ちである。
貸出用の本がなくなっていた、誰かが借りて見ていて下さるのですネ。
どんな人が読んでくれているのかしら、ありがとう!

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「子供に資産を残すより、書いたものを残す方が価値があるから」と
多くの本を出版されている、板橋禅師に言われた。
子供に残す資産は、何ももっていないが、自分の小さな生きた証をつくれた
ことに満足している。
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2013年10月27日

越前瑩山禅師ものがたり本発行の評価は?

平成25年8月6日 越前瑩山禅師ものがたり P243、500部 自費出版
瑩山禅師に関係の深い、福井県内、石川県内、横浜鶴見各図書館、曹洞宗寺院
越前市内公民館、国会図書館に寄贈 
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曹洞宗大本山開祖瑩山禅師は、越前市帆山町で誕生された。
禅師は、曹洞宗全国1万6千ヶ寺の基礎を築いた人物である。
福井県においてその名は、永平寺を開かれた道元禅師とともに
高く評価されてよいのだが、その知名度は低い。
曹洞宗では、常に「一仏両祖」を礼拝し尊崇している。
一仏とは釈迦牟尼仏であり、両祖・道元禅師を高祖承陽大師と尊称し、
瑩山禅師を太祖常済大師と尊称して、曹洞宗では常に一仏両祖を尊崇
している。

瑩山禅師を通して地元の目線から、越前市の町興しの一助になればと
の思いも込めて書いてみました。
昭和四十四年一月、龍門寺住職大久保博士の綿密な史実考証の
結果、この越前市帆山町が瑩山禅師の御誕生の地と大本山総持寺より
証明され、この地に顕彰碑が建立されている。

今回、初めて、南北朝時代に御醍醐天皇の皇子2人を奉じて、越前国に下向した
新田義貞に従い、金ヶ崎城の戦いでやぶれた瓜生保が、瑩山禅師の後裔と伝えられている
ことから、地元の目線で、顕彰裏面に記載されている、豪族瓜生氏の系図をもとに
新しい方向から瑩山禅師を探ってみた。
その結果、瑩山禅師を取巻く人間関係、諸事情から推察して越前市帆山町で誕生したのは
瑩山禅師、幼名(行生)と結論づけた。

今回この本を出版するにあたり心配したことがある。それは調査、研究されている多くの先生方、曹洞宗関係の方々からのご批判である。しかし配布した皆さまから届けられた便りは、好意的に評価していただき
私自身の自信へつなぐことができ、大変うれしく感謝している。

わたしは7人家族、3世帯同居の主婦で、仕事をもち机に向かうのは夜中、力不足のわたしが取組むにはあまりにも大きな課題で、あまりにもおおきな冒険で、これでよかったのかと思うところしきりですが、届けられた手紙の中の一通には、従来の定説なるものを安易に鵜のみにするものではなく、埋もれている事実を掘り起こし、歴史を再構築する気構えをもって研究にあたるべきであろう、21世紀は評論重視の時代といえよう。こう書かれてあった。    
posted by 和姫 at 00:20| 地方・郷土史