2017年05月23日

眠っている町のお宝 越前深草地蔵堂

越前市深草町「深草地蔵堂」調査報告       
                                    作成 平成26年4月8日
                                    再作成 平成28年12月20日
070.jpg 
地蔵堂は越前市深草町を南北に流れる河潅川に沿った道路に面して建てられている。間口3間、奥行4間の
瓦吹き堂内中央には、亨保16年8月24日(西暦1731)勧進僧清誉順應比丘が願主となり、久保町(窪町)
「現在の柳町」江川端に建立されていた、高さ1.7mの笏谷石製の、延命地蔵菩薩が安置されている。
当時の資料、越前市史などを探ってみると、府中では度重なる大火や飢饉、また大雨による江川をはじめ、日野川、苑葉川、高瀬川の氾濫は多くの犠牲者を出していることから供養としてこの延命地蔵が建立されたと考えられる。
005.jpgこの時,導師として正覚寺40代静誉上人を迎え、法要が執り行われたようで、その銘が坐像前面に陰刻されている。今回新しく発見した「導師 静誉上人」「三界萬霊」の陰刻により、堂内の全容が見えた。また、石仏に陰刻された「導師静誉上人」について、平成28年11月に解明,後記説明をつけ加える。 
 久保町江川に建立されていた地蔵堂が、現在地深草に移動した経緯は不明であるが、久保町付近は、越前の産業 鎌、鍬、包丁などを作る鍛冶屋が集中し、府中における出火多発地帯あった。地蔵堂も災禍を受け深草への移転を余儀なくされたと思われ、三宝荒神には、痛々しい火災跡が残り、府中の歴史を物語っている。
107.jpg

※静誉上人について
 上人号の下にくる文字「誉」は浄土宗において用いられている
平成28年度、越前市公会堂において開催された、開祖650年記念特別展『正覚寺展』の資料「正覚寺歴代住持職一覧」によると,享保9年(1724)から宝暦10年(1760)までの14年間、越前市京町 浄土宗正覚寺の住持職を勤めた40代静誉上人である。御上人は教養もあり活動的な方であられ『新善光寺略縁起』を書き、その翌年には江川端に奉安された延命地蔵菩薩開眼の導師を勤められている。

※新正覚寺略縁起について
 静誉上人は在職中の享保15年(1730)信濃の『善光寺略縁起』や『太平記』17巻から引用して『新善光寺縁起』を書いている。
その内容は新善光寺の縁起というよりは、善光寺如来の変遷について書かれている。その昔、如来は福井赤坂善光寺に奉安されていたが、新田、足利の兵乱により堂宇は灰燼と化したため、府中の城へ如来を移し奉安してより、この城は新善光寺城と名づけられた。(後に太西山正覚寺と改める)延元3年(1338)北朝の武将尾張守斯波高経は新善光寺城を拠点として、府中一帯を制覇すべく、南条郡杣山城を拠点とした南朝方の武将新田義貞軍と日野川を挟み激しい攻防を繰り広げた「日野川の戦い」で、新善光寺城はまたも灰燼と化した。この時、戦火を逃れて2代良信上人は(暦応3年庚辰初夏の頃)池ノ上村〈現越前市池ノ上町〉に草堂を建立(現大林寺)して、尊像を山陰に隠し奉安、国家安泰を祈願した。その後良信上人は 府中に戻り正覚寺を建立して、再度池の上より阿弥陀如来をお連れして安置したという。この尊像は、建久6年卯天5月15日(1195)今から855年前、尾張の定尊沙門が信濃善光寺へ百日参籠して三尊を拝し、瑞夢のお告げにより、汝我が形像を鋳奉するべきとの仏勅にて造られた日本無類之本尊である。

※新善光寺開祖良如上人
開山良如の父如道は、三河門徒の越前進出のなかで師円善と出会い弟子となり、正応3年(1290)足羽郡大町に専修寺を開いた。14世紀にかけて越前高田系の布教の最大拠点となり、如道の法脈は、高弟道願(今立郡上河端新出 誓願寺開祖) 三河出身道性(横越証誠寺開祖)本願寺覚如の兄如覚(鯖江誠照寺の祖)そして、如道の長男良如は(府中浄土宗正覚寺開祖) 次男如浄(大町専修寺2代)3男浄一(大町専照寺開祖) 4男正通 (府中片屋光照寺開祖)など親鸞の教えは越前の各地に広がっていきました。
 良如は浄土宗浄華院8代 敬法に帰依し、南北朝時代斯波高経の居城新善光寺城跡に,貞治5年(1366)越前市に初めて浄土宗正覚寺を開創しました。その2年後の応安元年(1368)には、正覚寺を2代良信に譲り、敦賀に北朝4代後光厳天皇の勅願により鎮西派西福寺を創建開祖となっています。

※地蔵堂内部
074.JPG 善光寺関係では、一つの舟形光背に、中央に阿弥陀如来・向かって右側に観音菩薩・左側に勢至菩薩、3尊を祀る善光寺式阿弥陀三尊像が安置されている。阿弥陀如来の印相は特徴的で、右手は手のひらを開き、私たちの方に向けた施無鋳印、左手は下げて人差し指と中指を伸ばし、他の指は曲げるという刀印、左右の菩薩の印は梵篋印といい、胸の前で左手に右の手を重ね合わせている。三尊像は蓮の花が咲き終えた芯を、臼型に重ねた蓮台に立っておられる。

 大勧進79代・大僧正を天明2年(1782)〜享和元年(1801)の20年間、勤められた等順上人の「南無阿弥陀仏」の名号の掛軸がある。上人一代在任中に、寛政6年(1794)から10年まで、北陸、山陰、山陽、九州、四国、畿内、美濃を巡行、融通念仏血脈譜を100万人余に授与し、善光寺信仰の全国普及に大きな役割を果たしている。堂内にある「南無阿弥陀仏」の軸も、授与された信者が寄進したものではないかと思われる

081.jpg
 堂内で目を引くのは、木像の三面六臂(三面像の頭上に五つの小面を持つ)の三宝荒神で暴悪を退治するという性質から、髪を逆立てて、眼は吊り上げ憤怒の表情を示している。不浄や災難を除去する神さまといわれることから、火の神さまとして信仰されている。
この神像をみると、全体的に火災を受けた跡が残されている。最初に建立された久保町について、武生市年表をみると、亨保5年(1720)、天文5年(1740)、寛延元年(1748)、文政2年(1819)に、火災に見舞われていることから、この像も当時、被害に遭い、その後、現在地深草町(清水畑)に移転され、再建立された可能性が高い。
『善光寺史』によると善光寺仁王門の東側にある仁王像の裏側には、火難防 止の守り神として三宝荒神が安置されていることから、この尊像も善光寺と関係が深い

031.jpg
026.jpg
堂内には約800体に及ぶ、市販のセトモノか、高さ約11cmの小さな供養地蔵菩薩が安置されている。享保・天明・天保飢饉、洪水など犠牲者の供養を願い納めたものか、背面には、戒名や願主名が墨書されている。これは越前市では大変珍しく、当時の荒廃した世の中を物語っている

130.jpg また、この堂に住職が住んでいたのか、面白い珍しい品がみつかった、前面の1面には「南無観世音菩薩」の墨書があり、底面には「明治25年2月18日 深草区地蔵堂 庵主・成瀬清覚尼」銘がある。高さ約30cmの6角形の木製筒で、中には100本の竹製の「くじ」が入っていて、10本には「南無阿弥陀仏」と書かれ、残り90本には番号が打ってある。箱を振り、引いた番号で吉凶を占う「おみくじ」をしていたようである。

 111.jpgお堂入り口に釣られた、経25cmの鰐口には、天保12年(1841)寄進者武生蛭子町・○○家内の銘や、壁にお堂を修理した時の寄付者の名が張られている事から、昭和60年代ごろまでは、地元の人達によって守られ、信仰を集めていたようである。現在は高齢化や守人たちが亡くなるなど、堂の管理はされていないが、この小さなお堂の、歴史的資産を大切に保管され、越前市の宝として守ることを願っています
            
【資料久保町・府中大火・飢饉(武生市年表)より】
享保5年 庚子(1720)9月22日 久保町出火(家老状留・市史藩政)
享保16年辛亥(1731)11月13日 越前地方百年来の大雪となり、壊家29戸 死者34人に及ぶ(福井県史・南条郡史・丹生郡史)
享保17年壬子(1732)害虫発生のため飢饉、藩の救米五百俵をだす(福井県史・南条郡史)

元文元年 丙辰(1739)府中大火 100余戸焼く
元文5年 庚申(1740)8月2日  久保町失火(家老状留・市史藩政)
寛延元年 辰戊(1748)3月27日 久保町龍門寺門前出火民家120戸 寺2ヶ寺焼失(家老状留・市史藩政・南条郡誌)
宝暦4年 甲戌(1754)府中大火 2月17日 登町など」120戸焼く
宝暦12年壬午(1762)府中大火4月3日 200戸  4月17日 1400戸
安永9年 庚子(1780)府中大火130戸焼く
文政2年 己卯(1819)7月1日 久保町養徳寺前20戸、蔵1棟焼失(辻川旧記録)
天保7年 丙申(1836)北陸大飢饉 翌年にかけて府中餓死者3000人
天保8年 丁酉(1837)本保町に天保救荒碑建つ
弘化元年 甲辰(1844)餓死者供養のため、上市町に月光寺(大仏))を建立
嘉永5年 壬子(1852)3月23日 府中大火 上市ら1500戸焼く

                                      
越前市「深草町地蔵堂」仏像調査 平成26年4月8日     北陸石仏会 きたむら
                                        補助者  おおうら          
調査内容、
1. 石仏関係
※ 延命地蔵尊半迦像(笏谷石製) 
     高さ 170cm
(ア) 創立 亨保16年辛亥8月24日(西暦1731)
(イ) 願主 清誉順應比丘  他に寄進者名か戒名を刻む
(ウ) 明治10年10月(1877)  
     再施主名を刻む 堀川利右ヱ門 伊藤孫八 曲木甚造     
(エ)  明治13年(1880) 再施主名を刻む  三代野久造     
※ 基壇は笏谷石2段積
(ア) 前面 上壇 三界萬霊 導師静誉上人銘有       
(イ) 右側 上壇 享保16年辛亥8月24日、 願主 清誉順應比丘   
(ウ) 左側 上壇 明治10年 明治13年 再施主銘     
(エ) 左側 下壇 享保年 寄進者・戒名か判読できない     
(オ) 右側 下壇 享保年 上に同じ 
※ 丸彫り合掌型小地蔵坐像  延命地蔵15体
※ 立像 不動明王  1体  曙大石銘

2. 木仏関係
※ 木仏  観音立像     1体 金箔  
※ 善光寺式三尊仏 1体 制作者 田中太三郎 
※ 阿弥陀立像 1体 上品・下生の印相
※ 小型釈迦誕生仏 1体
※ 弘法大師坐像 1体
※ 三面六臂坐像 1体 明王又三宝荒神 
 
3. 軸物  南無阿弥陀仏   1点  大勧進76代  等順上人 
※ 西国三十三ヶ所 3点

4. 陶器 小仏 約800体以上 非常に珍しい 
5. 鰐口   25cm  天保12年(1841)銘   寄進者 武生蛭子町 堀川〇〇家内 
6. 堂内提灯の寄進  新在家 堀川〇〇            

【調査結果】
 この堂は、師匠で県文化財保護指導員の山本氏が逝去される数ヶ月前の平成24年5月1日に調査されている。この時、延命地蔵の前面に燭台が置かれてあったことから、「導師 静誉上人」「三界萬霊」の銘を確認していないが、今回の調査で銘を発見、確認したことにより、この堂の内容が把握できた。
深草地蔵堂内の延命地蔵菩薩に、建立年、町名、願主、導師名が陰刻されていることから、享保16年、今から約300年前に、久保町江川端に勧進僧清誉順應比丘が願主となり地蔵菩薩が建立され、この時、静誉上人を導師として迎え、開眼供養が執り行われたようである。この上人については、平成26年調査当初、不明であったが、平成28年、先に記載したように正覚寺代40代静誉上人であることが判明した。
また、明治8年の越前武生市街地地図に久保町(窪町)(現柳町)があることから、江川端に地蔵堂が建立されていたものを、その後、深草の地(清水畑)龍泉寺の所有地に移動し、深草地蔵堂として建立されたと考えられる。移動年について、鰐口に年代 天保12年(1841)、町名蛭子町の銘があることから、この頃、深草地蔵堂はすでに建立されていたことになる。しかし鰐口の寄進者の町名が蛭子町(当時新在家)であることから、現在の鰐口は再作製されたと考えられる。明治10年、施主堀川利右ヱ門、伊藤孫八、曲木甚造の銘が基壇にあり、明治13年には、再び施主三代野久造によって修理が行われたようで、この地蔵堂は町民により守られてきた。地蔵菩薩が建立された当時を前後すると、災害が頻繁に起きている。大火、飢饉、堤防の整備不備は川の氾濫を招き、田畑、市井の人びとを苦しめていた。そんな犠牲者の供養をするためか、堂内には延命地蔵を囲むように800体以上の小さな地蔵菩薩が安置されている、その背面には、戒名、俗名、願主が記入され、この堂が庶民の信仰の対象とされてきたことがわかる。
越前市への南入口、南1丁目には天保15甲辰年(1845)に建立された飢饉供養題目塔があり、北端北府町にも天保6乙未年(1835)の天保飢饉供養題目塔が残されているが、深草地蔵堂のように、小さな地蔵を納め 個人を供養しているものは市内には残されていない。また、三宝荒神坐像は、越前市では拝することがなく、武生大火を証明するなど、当時を偲ぶ歴史的資料として保存を願いたい。
(以上資料として写真添付)

【今後の課題】
1、約800体に及ぶ供養地蔵は、越前の土かセトモノで造られているのか?030.jpg
2、阿弥陀如来像の鑑定 
037.jpg              
3、鰐口の銘、天保時代、蛭子町という町名があったのか?
4、三宝荒神の後背は火事で焼けているのではないか                                                                                           
                                味真野歴史を学ぶ講座
                                                                                       報告  おおうら
                              
                              掲載文書・写真 無断転載を禁ず
posted by 和姫 at 23:00| Comment(0) | 歴史的遺産
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。