2016年06月11日

越前万歳考 @ 越前万歳と前田利家公

越前万歳と前田利家公のつながり
元旦、味真野の里は新春を寿ぐ、軽妙な太夫と才蔵の掛け合い、シャシャシャ・・・と擦る、すり太鼓の音「徳若に御万歳と〜やかた栄えて申せん申せば、天から宝が降り下りや」お家の繁栄を願うお家万歳で一年がスタートする。越前万歳の発祥は古く、継体天皇が味真野に住んでいた男大迹皇子のころの伝承や、鎌倉時代、源頼朝の御殿に招かれ、万歳を舞ったことが、越前万歳の発祥であるという諸説があるが定かでない。
天正三年(一五七五)織田信長は一揆衆を全滅させ、越前国を配下に収めると、柴田勝家を越前北の庄城に置き八郡を与えた。その見張役として府中三人衆を入府させ、佐々成政には小丸城を、不破光治には龍門寺城を、尾張国荒子出身の前田利家には府中城が与えられた。府中三人衆が連名で発した案堵状(「大滝神社文書」)にみる序列では、不破河内守光治が上位で、佐々内蔵助、前田又左衛門尉利家とつづく。『北日野古文書撰』「式内帆山神社 事由 天正四年丙子二月 当国北庄様ヨリ当社御尋ニ付当御領主 府中龍門寺御城代 佐々内蔵助様江 村方ヨリ書上」の文中には、龍門寺城は、不破光治の居城であったものが、お尋ねの件の御城代は成政であり、当時三人の居城はまだ確定していないようである。
014.jpg

                [帆山神社」

天正八年(一五八〇)信長は、加賀・越中の一向一揆を平定すると、翌年天正九年(一五八一)、成政は越中国に移封し、利家には能登二十三万石が与えられ、「七尾宝円寺(後に母の菩提所長齢寺)」「小丸山城」の建設をはじめた。この時、成政入府から六年で未完成のまま廃城となった「越前小丸城」の資材を当時運輸の手段であった川船で運びだされ「小丸山城」が築城されたという。   今立郡真柄村は利家の支配地で、昭和七年、小丸城の西北隅から出土した文字瓦には「五月廿四日 一揆がおこり 前田又左衛門尉殿は一揆千人ばかりを生け捕りにし・・・」非情な成販をした利家の名がみえる。また、佐々成政は今立郡大滝村、岩本村など小丸城周辺の五箇を支配、この時、紙座を保護する証状を出し、粟田部付近の検地をお行っているなど、小丸城に成政と利家は同住していた可能性は高い。身近な城に野大坪村の百姓さん達が、年頭の行事や祝事に小丸城へ出向き万歳を披露したことが、前田利家との関係を深めていったのではないだろうか。
更に、天正十一年(一五八三)利家に加賀が与えられ「金沢宝円寺」を建立すると、利家の菩提寺「越前高瀬宝円寺」、同郷尾張荒子出身の住職・大透圭徐禅師を開山に迎えた。その後、大徹の弟子象山徐芸禅師が二世を継ぎ、加賀百万石の城下町づくりの一助を担い尽力した。越前の文化、芸能・経済・産業は越前の影響を大きく受けることとなった。

104.jpg

            「前田利家菩提寺 越前市高瀬宝円寺山門」
117.jpg

 越前高瀬宝円寺
  「前田利家の父利昌 戒名休岳の僧形石像と母戒名長齢院妙久大姉の宝筐印塔」
   宝筐印塔は荘厳な越前式で、天正8年11月24日の銘がある。

参考資料
「味真野歴史を学ぶ講座」味真野地区の歴史を考える 小丸城と文字瓦 
『福井県史』通史編3 近世
posted by 和姫 at 22:25| Comment(0) | 伝統行事

2016年06月10日

旧武生郵便局舎門柱の幸せの鳩

越前市の中心地、広小路通りに面して
大正3年10月、武生郵便局舎として新築された
木造二階建の、しょう洒な洋館風建物が残されている
昭和4年までの15年間、郵便と電信・電話業務を取り扱っていた。
現在越前市の越前府中まちなか博物館に指定されている
028.jpg

この建物の門柱が残されている
勿谷石製で、文字の書かれていた部分は剥離が激しく
読み取れないが、左右には「鳩」のデザインが彫られ
当時の名残を残している。
027.jpg


019.jpg

鳩は幸せを運ぶ郵便物の象徴として描かれ
単独で武生の郵便局のシンボルマークとして取り扱われたのだろうか
〒マークと共に「鳩」が再び郵便局のイメージマスコツトとして
登場してはどうだろうか、かわいい鳩を見ていてそう感じた



posted by 和姫 at 22:54| Comment(0) | 歴史的遺産