2014年04月29日

峨山道巡行交流会に参加して

今年で50回をむかえる、峨山道巡行を記念して、
前日に行われる、交流会に出席するため午前9時福井を出発、
途中、のと里山街道のパーキング西山で、ちょっと早い昼食
、迷った末、お店のおすすめ海鮮丼に決めた。
手ごろな値段の割に、味は上々、女3人でゆっくり食事を楽しんだ
ここから車で走って、門前までは30分、みておけばいいかな〜  
バッチリでした12時30分、交流館に着いた

禅の里交流館を1時30分マイクロバスに乗り
総持寺祖院から史蹟めぐりに出発
まず、門前にある「観音堂縁記」から転写した、瑩山禅師の筆による
「能登櫛比庄」の文字。細い線を見ていると、瑩山禅師の優しい人間性が見えてきます、

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峨山禅師以後、総持寺では「住持輪番制」がひかれ、輪番住職が交代する時は、長谷の湊で
下船して、黒島近くの海鮮問屋を営む総持寺御用の船鑑札をもっていた森岡家で身を整え
行列を作り総持寺へ上堂したという。
その受け渡しの法要が厳修された後に、披露の宴で歌われたのが「とろろ節」であった
「ドン、ドン、ドン」太鼓の音で始まる「門前とどろ」は、喜びと安堵を込めた宗教的意味を
含めお囃子「善哉 善哉」は仏教用語で「よいかな」の意で
諸願満足、円融円満の意味が込められている

この唄の一節にある「能登の門前すじかい橋を、死なぬ一期にハア渡りたい」
すじかい橋は、今の山門から200m離れた、総持寺総門跡地あたりにある。
ここで馬を降り、長い参道を歩き寺に入った。
総門跡地には、文化5年(1808)の石字経王塚と法身舎利塔元禄2年(1690)が
建つている。いかに総持寺が広大であったかが分かる
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           昔はここから山門まで約200mあった、遠くに総持寺祖院が見える

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祖院三松関前に「従是禅定石五町(コレヨリゼンジョウセキゴチョ)」の道標が立っている
能登は桜の満開を迎えていた、桜のトンネルをくぐり、和田山山頂には
瑩山禅師と峨山禅師が坐禅をしたという坐禅石がある。
ここからは、総持寺祖院や門前の町並が見え、西の方向には日本海がみえる
「瑩峨御両尊」はここに坐り何を語ったのだろうか、静けさのなかで、何を
夢見ていたのだろうか。全国に正伝の仏法を伝え、人々の幸せを祈り、
人間とは何か、模索しつづけていたのではないだろうか、
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総持寺祖院から約3キロ、トンネルを抜けると鹿磯区にでる、ここに「長谷観音堂」がある
能登地震で港の先端にあったお堂は、新らしくなり高台に移転されている
以前、何度かこの地に、観音さまを訪ね来たが、会えることはなかったが
長年の思いがやっと叶い、参拝することができた。
信仰心厚い地元の人たちによって守られている。今回、堂を守っているおばあさんにお会いした
一途に観音さまを慕い、観音さまと共に生きている、篤い思いが伝わり
信仰の本当のすがたを見た思いがした
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堂内には 高さ80cm、経40cmの丸太を切りぬき観音さまが彫られ、
その両側には狛犬が置かれている。桃山時代の作と言われ、疑灰岩でできている。
なんともいえないエキゾチックな顔をしている

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当時の能登半島は、海から入ってくる、豊かな経済に支えられ、格調高い
文化が香る、開かれた土地であった。
この能登の地に、禅苑を開いた瑩山禅師の教えも、また、海の交通を利用して
全国に伝播していき、生きがいを失くした、多くの人たちに希望を与えてくれた
鹿磯の観音さまは、港に出入する船の安全を祈り土地の人たちに温かく守られている。
3月18日には大祭が行われ、総持寺祖院から、監院が出向き法要が営まれるなど
総持寺と観音さまは深い関係があるようだ


posted by 和姫 at 23:18| Comment(0) | 福井県外編

2014年04月15日

朝倉遺跡の糸桜の意味が分かりました

福井市街から東南へ約10km、足羽川の支流、一乗谷川の谷間に東西500m
南北約3kmの谷間に、戦国時代、初代朝倉孝景、氏景、貞景、孝景、義景
と5代100年にわたり、朝倉一族は越前を支配していた。
この谷は、北部のみが開かれた、閉鎖的な地形になっている

一乗谷は天正元年(1573)8月17日織田信長勢に火を放たれ、朝倉氏の城下町は
三日三晩燃え続け、栄華を誇った一乗谷文化は、土の下に埋もれてしまった

その後394年過ぎた、昭和42年奈良国立文化財の指導で発掘が進められ、
朝倉館をはじめ、武家屋敷、寺院、町屋、商人屋敷をはじめ、
これらを結ぶ道路が発掘されるなど、戦国時代の町並がほぼ完全なすがたで
発掘され、多くの遺構、遺物が発見されている
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朝倉遺跡の糸桜が見ごろを迎えているとの報道で、一昨年、通りすがりに見た
しだれ桜の美しさをぜひ見たいと再び訪れたが、花との出会いも一期一会です、
あの時の美しさはありませんでした
朝倉遺跡には、特別な品種糸桜があると思い売店で「糸桜はどの樹ですか」と聞いてみた。
すると売店のお姐さんの答えは「武将は垂れる、しだれるという言葉は、自分の位が下がる、
家が没落するなどに通じるとして、不吉なこととし、忌み嫌うことから、
朝倉遺跡にあるしだれ桜を、糸桜と呼んでいる」との事でした。
 
 私も勉強不足でした、朝倉遺跡の糸桜の意味はこれでした
永禄11年(1568)3月下旬、足利義昭は、朝倉館居城一乗谷、南陽寺の遊宴に、
義景に招かれ、華麗なしだれ桜を観賞し歌を詠んだ
「もろともに月も忘るな糸桜 年の緒ながき契りと思はば」
「月も共に忘れないでほしい 糸桜が長く垂れるように 長い年月にわたる契りだと思うなら」 
この歌に和するように義景も
「君が代の時にあいあう糸桜 いともかしこき今日の言の葉」と詠んでいる
この歌にちなみ、朝倉遺跡ではしだれ桜を糸桜と呼び、多くの糸桜が植えられている

約400年の眠りから覚めた、武将たちのはかなく散った夢は
美しい糸桜と共に、訪れる人たちを戦国時代へ誘い、人々に夢とロマンを
与えてくれている。全国の皆さんにぜひ訪れてほしい場所です

朝倉館の上方に一乗谷初代朝倉敏景の笏谷石の宝篋印塔がある。
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前面には一乗谷殿 文明十三年辛丑天 林宗雄大居士 七月二十六日 敏景公霊塔の銘がある
しかし、宝筐印塔の基礎に不整合な割れ目があり、上半の紋様が、下半のものとは異なるり
不自然な造りで、後年になり挿入したとも思われる
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館跡の東南の隅にある。一乗谷松雲院跡に残る 義景の墓
寛文3年(1663)松平光通公が墓を建立した
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一乗谷には当時、約40ヶ寺が建立されていたといわれている

次の目的地は、一乗谷で最大の寺院であった、平安時代、朝倉敏景が叔父将景の
菩提を弔うために建立された天台宗真盛派西山光照寺跡、朝倉館外城戸をすぎ
越美北線の線路を横切り、朝倉資料館前道路を一乗谷駅目印に走る
線路をはさんだ反対側、山側に駐車場があるので、ここに車を置き歩いて約1、2分
ここへは朝倉遺跡へ来たらぜひ寄ってほしい場所です。多くの石仏に感動します

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posted by 和姫 at 10:56| Comment(0) | 自然 風景 写真

2014年04月13日

帆山寺の桜回路見事です

ソメイヨシノが散り始めると,一足遅れて、本堂前のしだれ桜が満開を迎える、
本堂までつづく、2本の見事な花の回路を通りお参りする
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信仰心厚い慈母は37歳の身重で,毎日山道を超え「多禰の観音堂」帆山寺千手観音に祈り
そして誕生されたのが、曹洞宗大本山総持寺開祖瑩山禅師と伝えられている
昨年、越前市からみた『越前瑩山禅師ものがたり』を書くにあたり調べた、
帆山寺に関しての資料『武生市史』『福井県史』から抜粋して記載

観音山帆山寺(古称 青瀧山円乗院帆山寺)は、当寺第一世真観大徳の草創で、天平元年巳年(729)2月18日、聖武天皇の勅願により藤原房前の詔を賜り、当国今立郡帆山町に於いて七堂伽藍二十社が建立され、境内は縦横三十五町 御供田五千石、旧例の如く諸役免除之有り。また観音遥拝所(現在住吉町帆山寺)十五町四方は、天正19年(1591)木村常陸介より寄進された所である。
その後、信長公の戦火により焼失した後は、現在地(住吉町)に移り府中府中城主本多富正公の帰依を受け、入府の際には立葵の紋の使用が許された。
北陸三十三所観音霊場の八番霊場として、千手観音を本尊とする、天台宗比叡山の末寺である。

亨禄3年(1530)帆山寺の光因なる僧が、勧進僧となって当寺を再建した勧進状が
あるので紹介する
帆山寺の本尊は千手観世音菩薩で、その尊容は泰澄大師の御作である。その御木は、定居元年(611)唐の高僧が来朝する際、日本海上が難波して、海に浮上していたものを拾い揚げた、天竺婆羅双樹の霊木である
長さは五丈三尺であった。56年が過ぎた白鳳10年(670)天人が降下して、二丈五尺の和州長谷寺の十一面観音像が造られた。その後、白鳳23年(693)南都の道昭和尚が、二丈一尺で不空羂索(ふくうけんさく)像を造り、興福寺南円堂に安置した。
残り七尺は、宇治川を渡る際に川面が光明を放ったので水面が明るくなり、和銅7年(714)泰澄大師がこれを拾い揚げ、一刀三礼彫にて千手観音像を一千日後に彫りあげ所願成就した。
養老元年(717)正月18日、夢のお告げがあり、聖武天皇聖暦元年(729)
越前国南都帆山寺に、堂宇三間四面が建立され尊像を安置した。

孝謙天皇天平勝宝年(755)6月1日になって、行基菩薩を導師として供養が行われた。
それより233年後の一条院永延2年(988)には、堂宇が五間四面に改築され、
花山帝の勅命により、天台宗恵心僧都源信が百ケ日参籠を遂げ
法華不断経の勤行を初めて修行した。
さらに一条院正暦)元年(990)天皇の奏上を経て、仏供灯明田十八町が引き募られ、
その後、帆山寺は比叡山の末流に位置付けられた。
このように聖武天皇より後鳥羽院に至るまでの帰依厚く、勅願としての諭旨を賜り
比類のない霊地であった。皇族からの帰依厚く、寺領は高倉天皇御在位嘉暦元年(1169)10月7日 
法華経田十町が寄付され、後白河法皇文治元年(1185)11月1日にも重ねて三町が寄附されている。
さらに七条院建久2年(1191)2月、七条院から三町三段が寄進され、総計十六町三段となっていた。
また.不断経田に就いては、国衙検注および万(ばん)雑公事を停止する旨の院宣が発せられた。
聖武天皇から今ここに至る後鳥羽天皇まで、41代にわたり,聖朝の安全と率土の
豊饒(ほうじょう)を祈る祈願寺である。
霊験新たかにして、その力に頼り深く帰依すれば御利益を与えられ、
その功徳はすべて観音の霊力によるものである。
posted by 和姫 at 21:36| Comment(0) | 史蹟・神社 仏閣

2014年04月11日

越前市桜の名所教えますC 村国山周辺

今年の桜はながーい間、花を楽しむことができた
どこを車で走っても、花、花、花、極楽浄土の世界です
今回は、市民に親しまれ、もっとも身近な村国山周辺を散策して見ました
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                      「 村国山に掘られている帆山トンネル」
越前市の真東に聳え標高238メートル、
武生盆地のなかで、もっとも大きな独立山で、
奈良時代には、帆山と呼ばれ帆山の「ほ」は(秀 穂 火 日)といわれ、
神聖なるとか、光りの意味で、聖なるものが宿る山、
聖なるものが降りてくる山としての崇拝山であった。

昭和八年十一月、与謝野晶子は夫の鉄寛とともに
武生を訪れ、観音谷を愛(め)でて歌を詠んでいる。
「日野川の 観音谷に 秋に咲く 山桜こそあわれなりけり」
秋の山桜があわれなすがたで咲いていたのを晶子は詠んでいるが
春咲く山桜も、今は、あわれなりけりです
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                                  「観音谷の山桜」
「船にいて 霧の中行く ここちする 越の帆山のいただきの亭」
昭和初期には、まだのんびりした風景が眺められたようで
、眼下に日野川の清流が見渡せ、春は桜、秋は紅葉と
四季を通して風光明眉な一帯で、市民の憩いの場所として利用されていた。

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posted by 和姫 at 23:57| Comment(2) | 自然 風景 写真

2014年04月09日

本山毫摂寺山門にも「ハート型金具」ありました

味真野地区には、古代から地域独特の文化が栄え、
その地域でのみおこなわれている行事が多い。

4月8日は、味真野地区仏教会主催の花まつり、
甘ーい香が一面に漂う堂内で、お釈迦さまの誕生仏に甘茶をかけお祝した
この日、最後に本山主催の書道展の表彰式があるということで出かけた。
文字の苦手な私と違い、書くことの大好きな2年生の孫は「特選」をいただいた
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大きな本堂の屋根を見上げ、孫は「ばあちゃん、瓦何枚あると思う」というが
本山のりつぱな屋根瓦の数は見当もつかない。「ばあちゃん、何万やで」「そうか」
地区の子供は、折に触れ本山との関わりをもち育っていく
自然と仏さまの心が宿っていく、ありがたいことです

ここ真宗出雲派本山毫摂寺(ごうしょうじ)は、南北朝時代に京都賀茂川に架かる出雲橋の辺りに、
親鸞(しんらん)聖人の血脈(けちみゃく)と法燈を伝える寺院としてあったという。
暦応(りゃくおう)三年(一三四〇)京都より越前山本荘(鯖江(さばえ)市神明町)に寄留していたが、
慶長八年(一六〇三)現在地越前市五分市町に誕生したと伝えられている。

宗祖親鸞上人の御木像を中央に安置した、本山布教の根本道場、御影堂は間口二十間四面の
総欅造りで明治17年(1884)の造営
御影堂正面の総門は、総欅造りで、文化8年(1811)に建立された荘厳なもので
屋根には、旧来は赤瓦に笏谷石の鬼瓦がのっていたが、近年の改修により下ろしてある
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ここにもありました、府中を象徴する「ハート型の金具」です、
いま、関心をもっている一つです
扉には、何枚もの金具が打たれ、幾何学模様が美しく、江戸時代後期の
手仕事が残されている。
龍泉寺の長持ちの墨書をみてわかるように、越前では打ち刃物に限らず、この様な装飾の金具も
鍛冶職人は作っている
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越前を象徴する、「ハート型」町おこしの統一マークとして、「こころ〜心へ」
越前ブランドロゴマークとして使用するのもおもしろいのではないだろうか
そんな夢を抱きながら越前に眠る「ハート」をさがします、

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阿弥陀如来の尊像を安置する阿弥陀堂(本堂)の山門には
徳川家葵紋、鯉が彫られている
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posted by 和姫 at 12:56| Comment(0) | 史蹟・神社 仏閣

越前市の桜の名所教えますB 味真野に咲く見事な桜

味真野小学校の校庭の桜は、新聞、テレビで報道され、
あまりにも有名、満開を迎えるころは、車、車、人、人でにぎわう
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                               「味真野小・校庭の桜」

味真野には校庭の桜にひけをとらない、桜がある。
小学校の信号を西へ400m、文室町へ至る道沿いに
濃いピンク色の見事な大木の1本桜がある
でも、いくら美しくても木にものがたり性がなければ
感動もなく美しいだけで終ってしまう
この道路奥には、若き継体天皇が学問所として開いた五皇神社がある
濃いピンク色は継体天皇を慕った照日前を連想できたら、この
桜は恋の花、若い人たちにアピールできないだろうか
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                                「文室町入り口の桜」

それに味真野校庭の桜を見に来て、残念に思うことがある
それは花見客が校庭の桜だけ見て帰ってしまうこと
この時期、味真野一帯が花で彩られるころ、歩いて回れる花の案内をお願いしたい
近場のコース 小学校校庭の桜〜文室のピンクの桜〜味真野苑の桜、水芭蕉と回れば
花見を満喫できると思う。良き味真野を皆さんに楽しんでいただけるのではないでしょうか
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                                 「味真野苑の水芭蕉」





posted by 和姫 at 00:55| Comment(0) | 自然 風景 写真

2014年04月06日

越前市の桜の名所教えますA 吉野瀬川の桜

越前市の西部を流れる吉野瀬川の両岸には、延々と桜並木がつづく
その川面に向い垂れさがる美しい光景は、京都鴨川や高瀬川に劣らない
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越前市にこんなに美しい桜並木があることを、宣伝がへたなのか、
美しいものに対して感動しないのか、日々の生活に忙しく、
花など見るゆとりがないのか、わからないが、
満開を迎え、最高の見ごろを迎えているのに見物客は少ない
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桜の季節を迎えると思いだす人物がいる
世の無常を感じ武士をすて出家、歌人としての道を歩んだ西行法師は
吉野山の桜に魅せられ、多くの歌を詠んでいる

「春ごとに花のさかりに逢ひ来つつ 思い出おおき我が身なりけり」、
「春ごとの花に心をなぐさめて 六十ばかりの年を経にけり」
西行が毎春のように吉野を訪れ、詠んだ歌は自分の生涯を象徴している

桜を愛した西行は、その願いどうり、文治6年(1190)2月16日
陰暦の2月、満月の桜の盛りのころ静かにその生涯をとじた
「願わくは はなのしたにて春しなん その如月の望月のころ」

「吉野瀬」という言葉の響き大好きです。未来に向け、
吉野瀬川の桜並木が、多くの人達の心に残る花となり
越前市の大きなな宝としてなっていくことを願っています
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地元の方にお願いをしたいのは、
イベントがあるときだけでなく、花のシーズンは、
この堤防への車両の乗り入れを禁止できないでしょうか。
写真撮影、花見見物には少しのゆとりをいただきたいと思います



posted by 和姫 at 00:00| Comment(2) | 自然 風景 写真