2013年11月28日

雪の準備はお早めに、日野川にカモが飛来

車の所有者はこの時期、天気に敏感になる。
3度、日野山に雪が積もると、寝雪になると言われているが、
まだ1度も日野山に、雪は積もっていない。
しかし、今年はスノ―タイヤの入替の時期が、早くなっている
近年各地で起きている、災害は大きな被害を出している。
いっどこで何が起きるかわからない。防災意識が高まっている。

かまきりが高い所に産卵していると大雪とか、モズが
捕えた獲物(はやにえ)の位置が高いと大雪とか、
今期の積雪を占う長期予報は、気温低めで積雪多いとのこと
この予報ははずれてほしいのですが、どうなることでしょう?

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日野川に鴨の群れが、飛来しています。下流に橋がかかり
危険を感じた鴨たちが、安全な日野川万代橋から豊橋の間に羽を休めている。
近年になく、多くの鴨たちがスイスイと泳いで穏やかな風景です。

でも、このかわいい野鳥が鳥インフルエンザを運んでくる
鳥インフルエンザが猛威をふるう、そんな危険もはらんでいる。
今は、陰をひそめ感染の情報は伝わってこないが、不気味な世の中です。

posted by 和姫 at 01:23| Comment(1) | 自然 風景 写真

2013年11月26日

奥の細道を訪ねて・気比大神宮・芭蕉の碑

 元禄2年3月27日(旧暦5月16日)俳人松尾芭蕉は弟子曾良を伴い、江戸から『奥の細道』の旅に
出発した。奥州地方のまだ見ぬ歌枕の地を旅し、日本海の海岸線を南下して、7月15日石川県に入り
加賀山中温泉、小松那谷寺を過ぎ、福井県吉崎に入り、北陸道を南下して、松岡天龍寺、永平寺を
過ぎ,旧知であった福井の等栽宅に二泊した後、旧暦8月14日早朝、等栽とともに仲秋の名月をたのしみに敦賀を目指した。

芭蕉は、福井から敦賀までの道中を『奥の細道』の中で「名月は敦賀の湊にと旅立つ。等栽もともに送らんと、裾をかしからげて、路の枝折れとうかれ立つ。ようやく、白根が嶽(白山)かくれて比那が嶽(日野山)あらわる。あさむつ(麻生津)の橋を渡りて、玉江の芦は穂に出にけり、鶯の関を過ぎて湯尾峠を越ゆれば、燧が城、鹿蒜山に初鴈を聞きて、14日の夕ぐれ敦賀の津に宿を求む。その夜 月殊に晴れたり」
旧暦9月27日、芭蕉は出雲屋に宿をとった。
今宵の月は快晴で美しい、芭蕉は宿の主人に「明日の夜も晴れるでしょうか」と尋ねると、主人は酒を勧めながら「北陸の天気は変わるもの、、明日はわかりません。今宵の内に気比神宮へお参りに行きましょう」
月のきれいな夜だった、月に照らされた白砂をみて一句「月清し 遊行のもてる 砂のうえ」と詠んだ。
これは正安3年(1301)時宗2代目他阿上人が、諸国巡錫中に、この地に滞在し、上人自らが海岸より
砂を運び、参道を整備した故事にちなんでいる。
8月15日、主人の言葉どうり、北陸の天気は移ろいやすく、雨であった。
芭蕉は奥の細道の旅において、月を題材に詠むことを目的としていたが、、
敦賀での仲秋の名月をみることはできなかった。

「名月や 北国日和 定めなき」

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芭蕉は敦賀で、5句詠んでいる、そのうち2句は気比神宮で詠まれている
境内には、敦賀で詠んだ月の5句の碑と昭和57年に建立された芭蕉像がある。

8月16日、天気は回復して晴れ、「奥の細道」の長い旅の終わりが近づいてきた
芭蕉が歩いた敦賀の最後の道を、再び訪れた時またブログで紹介します。



越前市に残る芭蕉に関係する石碑
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越前市河濯山境内 亨保15年3月15日 府中の俳人露朝が芭蕉から貰った「古池や蛙飛びこむ水の音」の色紙を埋め色紙塚と名づけた。
芭蕉は、敦賀へ向う途中、天気が気がかりだったのだろう日野山を見て「明日の月 雨占はむ 比那が嶽」と詠んでいる。

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石碑裏面には、芭蕉の弟子各務支考の撰文が刻まれているが、風化して詠みにくくなっている。

元禄14年(1701)各務支考は芭蕉俳偕の指導者として、美濃から越前に来錫、
越前の俳人増永遠近、上坂嵐枝に会い、積極的に俳偕の普及に努めた。
嵐枝は支考より文台を与えられ、府中美濃派の始祖となった。
支考が越前で詠んだ、遠近亭「冬かけて 籾する宿の 月夜かな」
帆山寺「千鳥啼く あかつきかけて 帆山寺」がある
posted by 和姫 at 00:17| Comment(0) | 歴史的遺産

2013年11月24日

気比神宮の狛犬さんたち

敦賀駅前、丸海商店へお土産にする、小鯛の笹づけを買いにいった。
行きは、山々が美しく色づいた、今庄経由で敦賀へでた、道案内はナビ、便利になりました。
やはり敦賀へ来たら、北陸道総鎮守越前国一の宮気比神宮へ参拝。

気比さんと言えば、高さ11mの朱漆塗りの大鳥居、正保2年(1645)
旧神領地であった、佐渡国鳥居ヶ浜から桂樹が伐採奉納され造営された。
春日大社、広島厳島神社と並ぶ日本3大木像鳥居に数えられ、国の重要文化財に
指定されている。その堂々とした容姿は、まさに敦賀のシンボルとなっている。

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本殿に向い気比神宮の御子神等関係の神々を祀る、九社之宮が鎮座し

境内には神明両宮、気比大神の案内をされる猿田彦神社。

花山天皇寛和2年(986)9月20日遷宮の事が残されている兒宮(このみや)。

敦賀市内、気比大神四守護神の一社として、明治年間、天筒山麓に鎮座されていた
のを、現在の地に移転、稲荷荷神社と金刀比羅神社を合祀した、大神下前(おおみしもさき)神社。

天皇より気比大神宮の司祭と当国の政治を任じられ、政所の地であったこの地に命を祀った、
角鹿(つぬが)神社。
気比神宮本宮の門神と言われている。現在の「敦賀」のもとの地名は「角鹿」で、この御名による。
この様に多くの神様が境内には祀られている。


 この境内の神社に祀られている、笏谷石製狛犬を紹介
角鹿神社の階段の両側に、大きさも、形も異なる、ア、ウン狛犬が安置されている。

ア像は、台座と共に彫刻され、顔は正面を向き、やや上向き、目は大きく見開き
前足を立て、後ろ足を屈して座している。
たて髪は9条あり、顔の横部分では髪を前側にカールさせている
耳小さく垂れ形。尾毛は1条で背に沿わせて立ちあげている。前足の前側に銘文がある

   前左足 亨保十一午歳(1726)
   前右足 加賀屋 正利造立

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ウン像は、台座と共に彫刻され、顔は正面を向き、やや上向き
たて髪は9条で、縄状に編んである。頭には小さな角をつけ、
耳は小さい。尾毛は3条にわけながら縄状に背にそって立ちあがっている。
基壇に、嘉永二巳酉歳(1849)の銘がある。この基壇がウンの狛犬のものであれば、
対の狛犬ではなく別物と思われる。

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大神下神社の社殿に向って、左側にア、右側にウンの像を配す。
顔は正面を向き、やや上向き、前足を伸ばし、後ろ足を屈して座す。
たて髪は13条で、顔の両側でカールさせている。
尾毛は右巻きの貝状に彫られている。像には銘文がある。

    ア像   背中左側 宝暦七丁丑歳(1757)
                 九月吉日

         前左足前側  加賀屋正徳

    ウン像  背中右側  宝暦七丁□歳(1757)
                 九月吉日

         前足右前側  加賀屋正徳
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土公(どこう)
天筒山の方角を拝し、神宮北東部に残る「土公」は、気比大神宮降臨の地とされている。
神宮創祀は2000年の神代にさかのぼり、当時の祭神を土公の地で祀ったといわれ、
現在、土公は神宮の古殿地として手厚く護られ、聖地となっている。

この前に一対の狛犬を配している。ア像を右側に配し、台座と像を一石造りとしている。
顔は正面のやや上を向き、前足を立て、後ろ足を屈して座している。タテ髪は扇を
広げた様に彫り、前足の後ろ外側に施毛してある。尾毛は三条にわけ
中央を太く立ちあがらせてある。基段の正面に「蒲生氏」と、
右側面の前方に「享和元年(1801)辛酉八月」の陰刻銘文がある。
ウン像の大きさ造りも、ア同様で、基壇正面には「蒲生氏」が陰刻されている。

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明日は、「奥の細道」の旅で、気比神宮を詠んだ俳人芭蕉の碑を紹介します
タグ:狛犬
posted by 和姫 at 21:00| Comment(0) | 史蹟・神社 仏閣

2013年11月23日

越前市に功労 市役所前・山本甚右衛門の銅像

先日紹介した、あのきれいな紅葉の名所、芦山公園を寄付した、
山本甚右衛門の銅像が、越前市市役所前、南東の一角に建てられている。
雨田公平監修による、今は亡き地元の彫刻家、内藤堯雄と山本晃祥の共同作品である。
銅像の説明文にはこう書かれている。
「明治元年生れの翁は、家業の蚊帳製造に専念し、機械による大量生産を計り
更に光輝畳縁を創案した財界の権威者である。
また、図書館を寄付し、公会堂を主唱しその実現に努力して、更に芦山公園
敷地を寄付するなど、幾多の社会事業に貢献し、晩年は養老院や児童館を訪ね
慈父の如く敬慕された」と記してある。

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一時代前の政治家、実業家は世の中の経済の仕組み、
人間性、生き方の違いはあるが、社会に貢献している人たちが多い。
現代の方が遙かに豊かなはずなのに、社会に貢献する人は少ない。
自分さえよければ、そんな風潮が万延している。







posted by 和姫 at 03:36| Comment(0) | 偉人・歴史上の人物

越前の社交場・府中町屋倶楽部

越前市は戦災、震災の被害にあうことなく、町屋や神社仏閣、など
多くの貴重な建物が残されている。
町の中央、蔵の辻、南側に面した入口の角に、町屋倶楽部がある。
越前市の指定する、府中まちなか博物館の22軒のなかの1軒に数えられている、
明治時代初期より、道斎めぐすりの名で、目薬を製造、販売を商ってきた。
その後、産婦人科医院として開業していたが、郊外へ移転し
長く空屋となっていたものを、市民グル―プによって補修再生され、
外壁の漆喰、袖卯建が蘇った。

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     「道斎めぐすり」

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      「仁丹」
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現在に通じる、多くの薬の看板が室内に残されている。これはお宝ですね
この建物は現存する町屋のなかで立派な部類に入る。

タグ:町屋
posted by 和姫 at 01:24| Comment(0) | 歴史的遺産

2013年11月22日

越前瑩山禅師ものがたり 見聞録@

今回、出版した越前瑩山禅師ものがたりに記載されている
各神社仏閣など、ご案内していきます。

はじめに
 新雪を踏み小さな僧庵へ至る坂道を登り、板橋興宗禅師にお会いしたのは、平成二十年の新春早朝でした。
 その頃、瑩山禅師誕生地近くに、御誕生寺法堂建立を発願されて設計にお忙しいなか、私が帆山(ほやま)町の住人ということで、瑩山禅師の話をされて、。書棚から一冊の厚い東隆眞著『太祖瑩山禅師』を取り出され、渡してくださいました。それには赤鉛筆でいくか所にも印が引かれ、禅師さまの探求心の深さと、心のぬくもりが伝わってきました。私も地元の人間として瑩山禅師を求めてみよう、そんな思いに駆られたのも、禅師さまのなに人も平等に受入れてくださる、広くあたたかい心にひかれてでした。    歴史を紐とくと、瑩山禅師は慈母の観音信仰によって、仏の申し子として越前市帆山町で誕生しました。幼少のころ、祖母に手をひかれ永平寺第三世徹通義介禅師の門に入り僧となられ、お釈迦さまより道元禅師に相続されてきた「正伝の仏法」を受継ぎ、加賀大乗寺第二世、能登永光寺開山、曹洞宗大本山總持寺を開創され、曹洞宗は全国に約一万六千ヶ寺の末寺を有す大教団に発展しました。その礎を築かれたのが郷土の大先覚者である瑩山禅師です。
 昭和四十四年一月、大久保道舟博士の綿密なる史実考証の結果、この帆山町が瑩山禅師御誕生の地と總持寺より証明され、この地に顕彰碑が建立されています。瑩山禅師が帆山町で御誕生されて、七百年以上過ぎた今日、町内には歴史的史実として残されているものはありません。
 そこで、南北朝時代に後醍醐天皇の皇子二人を奉じて、越前国に下向した新田義貞に従い、金ヶ崎城の戦いで敗れた瓜生保が瑩山禅師の後裔と伝えられていることから、顕彰碑裏面にも記載されている、豪族瓜生氏の家系図を基に、新しい方向から瑩山禅師を探ってみました。
瓜生氏は嵯峨天皇を祖とし、初代種は承久の乱に敗れ越後に退去、その後、子孫が越前国に再び戻り、越前南条郡杣山に城を構え居住しています。
 今回、資料として、○○○○○を主軸に、瑩山禅師を一考察してみました。
前半では瑩山禅師の御生涯、尊師方、高弟、及び通幻禅師「十哲」のうち、越前国で寺院を開いた「五哲」を取上げ、後半では誕生地帆山町、多禰の観音帆山寺、瓜生一族を地元の目線で見てみました。
御誕生寺板橋禅師との出会いにより、こころを大きく揺り動かされ偉大な瑩山禅師にお近づきできましたことを、尊いご縁と感謝し大きな喜びとするところです。


 瑩山禅師御生誕七百年記念事業の一環として、昭和四十四年六月十三日に「瑩山禅師御誕生地顕彰碑」は越前市(旧武生市)帆山町に建立された。
 紫雲台貎下(しうんだいげいした)御親修のもと、武生市長、地元関係者約五百人の参列をえて、落慶除幕式が、梅雨時にはめずらしく快晴に恵まれ、盛大に執り行われた。
 碑は高さ五メ―トル、幅一・六メートル、厚さ四十センチ、玉垣に囲まれた、約五十平方メートルの台上に立ち、見上げるばかりの壮大なものである。建碑工事代金は、当時六百九十万七千円であった。
 この彰顕碑建立によって、太祖瑩山禅師の誕生地は帆山町と認められた。

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碑文
 禅師ハ西紀一二六八年十一月二十一日越前国多祢邑瓜生家ニテ生ル、観音信仰厚イ母堂ハ「胎内ノ子モシ将来世人ニ益スルナラバ守ツテ産安カランコトヲ、モシ世人ニ害アラバワガ身ト共ニ滅バンコトヲ」ト仏前ニ願ヲ掛ケ毎日三十三卷ノ観音経ヲ唱シ、三百三十三拝ノ行ヲナシナンナク安産 行生ト名付ケラレル、名ノ由来ハ観音堂屋敷内ヲ歩行中ニ誕生セシ故ニテ仏台座ニ生髪ト臍尾ヲ中ニ容レテ納ム、長ジテ学徳兼備行解相応ノ大禅匠ト成リ、後醍醐天皇ノ篤キ帰依ニ依リ 開山ノ能登総持寺ハ日域無双ノ禅苑、曹洞出世ノ道場、ヨロシク南禅第一ノ上刹ニ相並ビ紫衣法服ヲ着シ宝祚ノ長久ヲ祷リ奉ルベキモノ、天機カクノ如シ」論旨ヲ下賜サル、即チ勅定ニ依リテ 曹洞宗ヲ称シ大本山ヲ制シ、宗団構成ノ礎ヲ築キ現在大宗派タル基ヲ開ク、コノ功業ヲ偲ンデ、昭和四十二年禅師御誕生七百年ノ慶事ヲ迎ルニ当リ誕生地武生市民並ニ本山縁故者有志ノ協力ニヨリコノ縁由ノ地ニ報恩彰ノ碑ヲ建立シ以テ永クソノ恩徳ヲ讃ウ
  昭和四十四年一月十日

      大本山総持寺独住第十九世
        勅賜正應天真禅師 絶海勝俊撰       
         
                        紫雲室待者 林泉庵 黒杉道印謹書                                        
              
                                (越前瑩山禅師ものがたりより)





posted by 和姫 at 00:00| Comment(0) | 地方・郷土史

2013年11月20日

知恩院孝譽上人の六字名号塔を発見

先日訪れた、大野市下黒谷地区の墓地の六字名号塔の写真を
改めて見直した。
知恩院御門跡第七十九世山下現有(孝譽上人)の
自然石に彫られた、六字名号を発見する。落款の陰刻あり
仏教界を代表する六字の名号である      
この人物は、筆跡、銘文から孝譽上人と確認できる。

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                 知 恩 院  一 門

               南 無 阿 弥 陀 佛
              
                      孝 譽  (落款)

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               孝譽の落款

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               左側面  大正十甲子年 
                        □ □ □ 


                   急いでいたので、再度調査の必要がある

       
山下現有(1832〜1934)京都知恩寺、東京増上寺の住職を経て
浄土宗総本山知恩院の門主となり、同時に浄土宗管長に就任
長命で昭和九年103歳で示寂 広く仏教界から生き仏と尊崇されてきた



posted by 和姫 at 22:45| Comment(0) | 歴史的遺産