2013年10月31日

月のミステリー、徳本上人の足跡

月が三つに割れて見える、そんな不思議なこと現代の世の中で信じられますか。

左岸に日野川が流れ、霊峰日野山、信仰の山、村国山を眼前にのぞみ、
北陸道に面した松森町に、その秘密は隠されている。

陰暦の七月二十七日夜明け、月が三つに割れて(三光天子と称す)
東の天空に出現するのを拝すと、幸せになれると伝えられている。
(故事によると、7月26日 夜待ちの月は阿弥陀、観音 勢至の出現
といわれている)
 
伝承によれば、この地方を巡錫していた徳本上人が、たまたま七月二十六日、
地蔵堂のなかで仮眠していると、東の天空に三光天子が現れ、
それを村人に話たのが、月見地蔵堂の始まりだと伝えられている

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                 (徳本上人名号塔)

松森出身の母の時代には、近隣の多くの人たちが,盆踊りをして時をすごし
月の出を待ったという。娯楽のない時代楽しいひとときであったのだろう

本当に月が三つに割れて見えたのだろうか、その答えはわからないが
これも信仰心篤い,日本人のこころからでたものである。

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                  (月見地蔵堂内)

posted by 和姫 at 23:31| Comment(0) | 歴史的遺産

2013年10月30日

越前市に残る徳本上人の名号塔、

市街地の西、産業道路を走ると余田町(町名の読み方は難しく「はぐり」と読む)の
道路に面し、東向きに建てられている。石材は安山岩と思われ、高さ185cm
前面中央には、徳本上人独特の終筆が跳ね上がる「南無阿弥陀仏」と、
その向って右側には「観世音」と左側には「大勢至」が陰刻してあり
名号の下には、徳本上人の花押がある。
両側面にも、連台のうえに名号が陰刻されている。

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徳本上人は江戸時代後期の浄土宗の僧。ただひたすら木魚、鉦を鳴らし
「南無阿弥蛇仏」を唱え日本各地をまわり、庶民の苦しみを救った念仏行者
である。巡錫を契機に各地に念仏講が組織され、徳を慕い名号塔が造られた。
巡錫の際、余田町の片山家で宿泊したと伝えられている。
文政元年(1818)十月六日、江戸一行院で遷化された。




posted by 和姫 at 19:21| Comment(0) | 歴史的遺産

2013年10月27日

越前瑩山禅師ものがたり本発行の評価は?

平成25年8月6日 越前瑩山禅師ものがたり P243、500部 自費出版
瑩山禅師に関係の深い、福井県内、石川県内、横浜鶴見各図書館、曹洞宗寺院
越前市内公民館、国会図書館に寄贈 
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曹洞宗大本山開祖瑩山禅師は、越前市帆山町で誕生された。
禅師は、曹洞宗全国1万6千ヶ寺の基礎を築いた人物である。
福井県においてその名は、永平寺を開かれた道元禅師とともに
高く評価されてよいのだが、その知名度は低い。
曹洞宗では、常に「一仏両祖」を礼拝し尊崇している。
一仏とは釈迦牟尼仏であり、両祖・道元禅師を高祖承陽大師と尊称し、
瑩山禅師を太祖常済大師と尊称して、曹洞宗では常に一仏両祖を尊崇
している。

瑩山禅師を通して地元の目線から、越前市の町興しの一助になればと
の思いも込めて書いてみました。
昭和四十四年一月、龍門寺住職大久保博士の綿密な史実考証の
結果、この越前市帆山町が瑩山禅師の御誕生の地と大本山総持寺より
証明され、この地に顕彰碑が建立されている。

今回、初めて、南北朝時代に御醍醐天皇の皇子2人を奉じて、越前国に下向した
新田義貞に従い、金ヶ崎城の戦いでやぶれた瓜生保が、瑩山禅師の後裔と伝えられている
ことから、地元の目線で、顕彰裏面に記載されている、豪族瓜生氏の系図をもとに
新しい方向から瑩山禅師を探ってみた。
その結果、瑩山禅師を取巻く人間関係、諸事情から推察して越前市帆山町で誕生したのは
瑩山禅師、幼名(行生)と結論づけた。

今回この本を出版するにあたり心配したことがある。それは調査、研究されている多くの先生方、曹洞宗関係の方々からのご批判である。しかし配布した皆さまから届けられた便りは、好意的に評価していただき
私自身の自信へつなぐことができ、大変うれしく感謝している。

わたしは7人家族、3世帯同居の主婦で、仕事をもち机に向かうのは夜中、力不足のわたしが取組むにはあまりにも大きな課題で、あまりにもおおきな冒険で、これでよかったのかと思うところしきりですが、届けられた手紙の中の一通には、従来の定説なるものを安易に鵜のみにするものではなく、埋もれている事実を掘り起こし、歴史を再構築する気構えをもって研究にあたるべきであろう、21世紀は評論重視の時代といえよう。こう書かれてあった。    
posted by 和姫 at 00:20| 地方・郷土史

2013年10月24日

糞掃衣作りは魅力がいっぱい

龍泉お袈裟を縫う会は、今年で8年目を迎え、会員15名で作業が行われている。
1年に1枚のペースで出来上がり、時間がかかる手仕事で、今回の慈眼寺さまの
糞掃衣で9枚目となった
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若き道元禅師が留学した宋国景徳寺僧堂では、修行僧が坐禅を始める前に、深々と
合掌して頭上に袈裟をのせて「大哉解脱服 無相福田衣 被奉如来教 広度諸衆生」
(大いなる解脱の服 すべての執着を離れた袈裟 それは如来の教えをいただき、諸々の
衆生を救済せん)と塔袈裟の偈文を唱え袈裟を着けていく姿に驚き、袈裟の正しい教えに
巡り会えた喜びに、普段感情をあらわさない禅師が喜びの涙を流したという。
それ以来、袈裟に帰依した禅師は、お釈迦様より正しく伝えられてきた袈裟と仏法を伝えたい
と、自らに誓い日本に帰ってきた。

糞掃衣とは、掃きだめいらなくなって捨てられる様な、人の惜しみのかからない布地を
きれいに洗い、丈夫なところを切り取り つなぎ合わせ一枚の大きな生地に仕立てていく
生地の色は壊色とよばれる「ねたみ」「おごり」など迷いのこころを起さない色を用い
縫製は返し針(却刺縫い)でほつれない様に丈夫に縫われる。
糞掃衣は欲望から離れ、質素を旨とする曹洞宗では、最も優れたもの、尊いものとして
仏身ととらえ、正伝の仏法とともに師匠から弟子へ伝えられていく。

庫裡での作業は静けさの中で進められる、1針1針こころをこめて丁寧に縫っていく
縫い方の上手、下手は問わない。出来上がりの美しさを追求するより、こころに響く
お袈裟作りをこころがけている。
相手を思いやり寄り添うことの大切さ、ありがとう、おかげさま、ごめんなさいと口に出る
感謝のこころ。人としての生き方をお袈裟作りを通して教わることは多い。
posted by 和姫 at 23:13| Comment(0) | 史蹟・神社 仏閣

2013年10月23日

糞掃衣奉納に天真自性禅師開祖・今庄宅良慈眼寺へ

瑩山禅師によって開かれた、総持寺は後を継いだ第二世峨山禅師によって、広く全国へ発展する基礎を築かれた。
その門下からは「五哲」「二十五哲」という俊僧が育ち、瑩山禅師の教えは能登門前の地より全国へ伝播していき総持寺は大きく発展していった。
その「五哲」のなかでもっとも活躍したのが、通幻寂霊禅師である。
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今日は、通幻禅師の「十哲」のうち、福井県に寺院を開いた第6番目の弟子
天真自性禅師の600回遠忌にあわせ、南越前町宅良・慈眼寺方丈さまに
15条遠山糞掃衣を奉納するため会員11人で訪れた。


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天真禅師(?〜1413)は奥州守護藤原氏の家にうまれた。
幼少より智慧と勇気をもち、武士の道を歩んでいった。
時は南北朝時代、しはし戦場に赴き功をあげるが、次第に世の無常を感じようになり
仏道の道を歩んでいく。
ある日、禅僧永嘉真覚大師の「証道歌」のなかの「法身を覚了すれば無一物
本源自性天真仏」(自分を見極めればなにもない もともとそのまま仏のすがたであるを聴き発心して、
武士の身分をすて、越前龍泉寺の通幻寂霊禅師に参禅じた。
この時、禅師は42歳になっていた。典座職の大役を担い、日夜坐禅弁道して日々修行に励んだ。
そんな天真禅師の姿をみて、師匠が近づき声をかけた「修行に励んでいるようだが
、その心境はどうだ」と問うと、天真禅師は「わたしはまだ、生まれたままの鉄でございます」と答えた。
その問答に師匠は、天真禅師の修行が達したことを認め嗣法した。
十二年間の龍泉寺での修行を終え、再び行脚の旅を続けていた禅師は、嘉慶元年(1389)
山深い今庄宅良の地に魅せられ、ここに寺院を建立することを決めた。
寺を建立するため地面を掘ったところ、地中より金色の十一面観音菩薩が出てきたので、本尊として安置して、寺の名を「普門山慈眼寺」とした。
その後、丹波永沢寺7世、龍泉寺6世の輪住を勤め、武蔵(埼玉県)に竜淵寺を、大隈(鹿児島県)に
楞厳寺を開山するなど、全国的に教線をひろげていった。
晩年、再び慈眼寺に戻ったが、病いを得て、応永二十年(1413)1月13日早朝、豪雪地に建つ
慈眼寺のやねには積雪があった。凍てつく道場で、争うことを嫌い、
人間として生き方を模索しつづけ、そして極められた禅師は、坐禅をしたままのすがたで遷化された。
天真禅師は弟子の育成に力を注ぎ、優れた弟子4哲を輩出した。その弟子たちが全国に下って、
曹洞宗の教えを広め、慈眼寺の末寺は1200余ヶ寺となった。





posted by 和姫 at 23:34| Comment(0) | 史蹟・神社 仏閣

峨山禅師予修法要 越前市龍泉寺

「大いなる足音が きこえますか」
お釈迦さまの教え、それを師匠から弟子へと受け継がれていくことを
「相承」といいます。
平成二十七年には、曹洞宗大本山総持寺・二祖峨山韶碩禅師650回忌
大遠忌法要が総持寺において奉修されます。

この度、峨山禅師坐像を安置する越前市龍泉寺で、全国で最初の予修法要が
総持寺貫主をお迎えして厳粛に執りおこなわれました。

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遠忌とは、祖師や故人を偲び、五十年忌、百年忌と長い期間をおいて行われる法要のことで
通例として50年ごとに行われている。
この様に、ご遠忌に巡り会えますことは、自分の生涯において1度法要に参列できるか、尊いことで
このご縁に感謝いたします。

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曹洞宗では、大遠忌(だいおんき)とよみ、浄土真宗では御遠忌(ごえんき)と呼ばれ
宗派により異なっています。
また、法要当日、受付に出すのし袋は、年忌を重ね法要が行われることは、めでたいこととして
蝶結びの紅白の包みが使用され、服装は黒の礼服にこだわらない。


峨山禅師坐像
福井藩主結城秀康の付家老本多富正は、慶長6年(1601)3万7千石を与えられ府中領主に任じられると、龍泉寺の輪番住職213世、福井孝顕寺開山舜国洞授(心月円光)に帰依して龍泉寺を本多家の菩提寺と定めました 。
福井藩と龍泉寺は密接な関係を持ち、2代目藩主忠直から6代目藩主綱昌に至る、
5代の藩主から、土地の寄進を受け1万4千坪となり、江戸初期以来、
越前市では一番大きな寺領を持ち、龍泉寺は「殿さまの寺」として、
明治維新を迎えるまで発展してきた。

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峨山禅師坐像には彩色が施こされ、像のなかに「慶安二年(1649 )七月廿日 出目幾斉」
と墨書きされている。
坐像は、日本能面制作第一人者、出目満照の名跡を継いだ、越前の仏師出目幾斉によって
作られ、本多富正は、この木像を奉納した十八日後、慶安二年八月十二日に、府中城で
没している事から、この峨山禅師坐像は死を覚悟した富正が、出目幾斉に造らせたと思われる。
市の指定文化財になっています。
         

posted by 和姫 at 01:35| Comment(0) | 史蹟・神社 仏閣