2017年05月23日

眠っている町のお宝 越前深草地蔵堂

越前市深草町「深草地蔵堂」調査報告       
                                    作成 平成26年4月8日
                                    再作成 平成28年12月20日
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地蔵堂は越前市深草町を南北に流れる河潅川に沿った道路に面して建てられている。間口3間、奥行4間の
瓦吹き堂内中央には、亨保16年8月24日(西暦1731)勧進僧清誉順應比丘が願主となり、久保町(窪町)
「現在の柳町」江川端に建立されていた、高さ1.7mの笏谷石製の、延命地蔵菩薩が安置されている。
当時の資料、越前市史などを探ってみると、府中では度重なる大火や飢饉、また大雨による江川をはじめ、日野川、苑葉川、高瀬川の氾濫は多くの犠牲者を出していることから供養としてこの延命地蔵が建立されたと考えられる。
005.jpgこの時,導師として正覚寺40代静誉上人を迎え、法要が執り行われたようで、その銘が坐像前面に陰刻されている。今回新しく発見した「導師 静誉上人」「三界萬霊」の陰刻により、堂内の全容が見えた。また、石仏に陰刻された「導師静誉上人」について、平成28年11月に解明,後記説明をつけ加える。 
 久保町江川に建立されていた地蔵堂が、現在地深草に移動した経緯は不明であるが、久保町付近は、越前の産業 鎌、鍬、包丁などを作る鍛冶屋が集中し、府中における出火多発地帯あった。地蔵堂も災禍を受け深草への移転を余儀なくされたと思われ、三宝荒神には、痛々しい火災跡が残り、府中の歴史を物語っている。
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※静誉上人について
 上人号の下にくる文字「誉」は浄土宗において用いられている
平成28年度、越前市公会堂において開催された、開祖650年記念特別展『正覚寺展』の資料「正覚寺歴代住持職一覧」によると,享保9年(1724)から宝暦10年(1760)までの14年間、越前市京町 浄土宗正覚寺の住持職を勤めた40代静誉上人である。御上人は教養もあり活動的な方であられ『新善光寺略縁起』を書き、その翌年には江川端に奉安された延命地蔵菩薩開眼の導師を勤められている。

※新正覚寺略縁起について
 静誉上人は在職中の享保15年(1730)信濃の『善光寺略縁起』や『太平記』17巻から引用して『新善光寺縁起』を書いている。
その内容は新善光寺の縁起というよりは、善光寺如来の変遷について書かれている。その昔、如来は福井赤坂善光寺に奉安されていたが、新田、足利の兵乱により堂宇は灰燼と化したため、府中の城へ如来を移し奉安してより、この城は新善光寺城と名づけられた。(後に太西山正覚寺と改める)延元3年(1338)北朝の武将尾張守斯波高経は新善光寺城を拠点として、府中一帯を制覇すべく、南条郡杣山城を拠点とした南朝方の武将新田義貞軍と日野川を挟み激しい攻防を繰り広げた「日野川の戦い」で、新善光寺城はまたも灰燼と化した。この時、戦火を逃れて2代良信上人は(暦応3年庚辰初夏の頃)池ノ上村〈現越前市池ノ上町〉に草堂を建立(現大林寺)して、尊像を山陰に隠し奉安、国家安泰を祈願した。その後良信上人は 府中に戻り正覚寺を建立して、再度池の上より阿弥陀如来をお連れして安置したという。この尊像は、建久6年卯天5月15日(1195)今から855年前、尾張の定尊沙門が信濃善光寺へ百日参籠して三尊を拝し、瑞夢のお告げにより、汝我が形像を鋳奉するべきとの仏勅にて造られた日本無類之本尊である。

※新善光寺開祖良如上人
開山良如の父如道は、三河門徒の越前進出のなかで師円善と出会い弟子となり、正応3年(1290)足羽郡大町に専修寺を開いた。14世紀にかけて越前高田系の布教の最大拠点となり、如道の法脈は、高弟道願(今立郡上河端新出 誓願寺開祖) 三河出身道性(横越証誠寺開祖)本願寺覚如の兄如覚(鯖江誠照寺の祖)そして、如道の長男良如は(府中浄土宗正覚寺開祖) 次男如浄(大町専修寺2代)3男浄一(大町専照寺開祖) 4男正通 (府中片屋光照寺開祖)など親鸞の教えは越前の各地に広がっていきました。
 良如は浄土宗浄華院8代 敬法に帰依し、南北朝時代斯波高経の居城新善光寺城跡に,貞治5年(1366)越前市に初めて浄土宗正覚寺を開創しました。その2年後の応安元年(1368)には、正覚寺を2代良信に譲り、敦賀に北朝4代後光厳天皇の勅願により鎮西派西福寺を創建開祖となっています。

※地蔵堂内部
074.JPG 善光寺関係では、一つの舟形光背に、中央に阿弥陀如来・向かって右側に観音菩薩・左側に勢至菩薩、3尊を祀る善光寺式阿弥陀三尊像が安置されている。阿弥陀如来の印相は特徴的で、右手は手のひらを開き、私たちの方に向けた施無鋳印、左手は下げて人差し指と中指を伸ばし、他の指は曲げるという刀印、左右の菩薩の印は梵篋印といい、胸の前で左手に右の手を重ね合わせている。三尊像は蓮の花が咲き終えた芯を、臼型に重ねた蓮台に立っておられる。

 大勧進79代・大僧正を天明2年(1782)〜享和元年(1801)の20年間、勤められた等順上人の「南無阿弥陀仏」の名号の掛軸がある。上人一代在任中に、寛政6年(1794)から10年まで、北陸、山陰、山陽、九州、四国、畿内、美濃を巡行、融通念仏血脈譜を100万人余に授与し、善光寺信仰の全国普及に大きな役割を果たしている。堂内にある「南無阿弥陀仏」の軸も、授与された信者が寄進したものではないかと思われる

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 堂内で目を引くのは、木像の三面六臂(三面像の頭上に五つの小面を持つ)の三宝荒神で暴悪を退治するという性質から、髪を逆立てて、眼は吊り上げ憤怒の表情を示している。不浄や災難を除去する神さまといわれることから、火の神さまとして信仰されている。
この神像をみると、全体的に火災を受けた跡が残されている。最初に建立された久保町について、武生市年表をみると、亨保5年(1720)、天文5年(1740)、寛延元年(1748)、文政2年(1819)に、火災に見舞われていることから、この像も当時、被害に遭い、その後、現在地深草町(清水畑)に移転され、再建立された可能性が高い。
『善光寺史』によると善光寺仁王門の東側にある仁王像の裏側には、火難防 止の守り神として三宝荒神が安置されていることから、この尊像も善光寺と関係が深い

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堂内には約800体に及ぶ、市販のセトモノか、高さ約11cmの小さな供養地蔵菩薩が安置されている。享保・天明・天保飢饉、洪水など犠牲者の供養を願い納めたものか、背面には、戒名や願主名が墨書されている。これは越前市では大変珍しく、当時の荒廃した世の中を物語っている

130.jpg また、この堂に住職が住んでいたのか、面白い珍しい品がみつかった、前面の1面には「南無観世音菩薩」の墨書があり、底面には「明治25年2月18日 深草区地蔵堂 庵主・成瀬清覚尼」銘がある。高さ約30cmの6角形の木製筒で、中には100本の竹製の「くじ」が入っていて、10本には「南無阿弥陀仏」と書かれ、残り90本には番号が打ってある。箱を振り、引いた番号で吉凶を占う「おみくじ」をしていたようである。

 111.jpgお堂入り口に釣られた、経25cmの鰐口には、天保12年(1841)寄進者武生蛭子町・○○家内の銘や、壁にお堂を修理した時の寄付者の名が張られている事から、昭和60年代ごろまでは、地元の人達によって守られ、信仰を集めていたようである。現在は高齢化や守人たちが亡くなるなど、堂の管理はされていないが、この小さなお堂の、歴史的資産を大切に保管され、越前市の宝として守ることを願っています
            
【資料久保町・府中大火・飢饉(武生市年表)より】
享保5年 庚子(1720)9月22日 久保町出火(家老状留・市史藩政)
享保16年辛亥(1731)11月13日 越前地方百年来の大雪となり、壊家29戸 死者34人に及ぶ(福井県史・南条郡史・丹生郡史)
享保17年壬子(1732)害虫発生のため飢饉、藩の救米五百俵をだす(福井県史・南条郡史)

元文元年 丙辰(1739)府中大火 100余戸焼く
元文5年 庚申(1740)8月2日  久保町失火(家老状留・市史藩政)
寛延元年 辰戊(1748)3月27日 久保町龍門寺門前出火民家120戸 寺2ヶ寺焼失(家老状留・市史藩政・南条郡誌)
宝暦4年 甲戌(1754)府中大火 2月17日 登町など」120戸焼く
宝暦12年壬午(1762)府中大火4月3日 200戸  4月17日 1400戸
安永9年 庚子(1780)府中大火130戸焼く
文政2年 己卯(1819)7月1日 久保町養徳寺前20戸、蔵1棟焼失(辻川旧記録)
天保7年 丙申(1836)北陸大飢饉 翌年にかけて府中餓死者3000人
天保8年 丁酉(1837)本保町に天保救荒碑建つ
弘化元年 甲辰(1844)餓死者供養のため、上市町に月光寺(大仏))を建立
嘉永5年 壬子(1852)3月23日 府中大火 上市ら1500戸焼く

                                      
越前市「深草町地蔵堂」仏像調査 平成26年4月8日     北陸石仏会 きたむら
                                        補助者  おおうら          
調査内容、
1. 石仏関係
※ 延命地蔵尊半迦像(笏谷石製) 
     高さ 170cm
(ア) 創立 亨保16年辛亥8月24日(西暦1731)
(イ) 願主 清誉順應比丘  他に寄進者名か戒名を刻む
(ウ) 明治10年10月(1877)  
     再施主名を刻む 堀川利右ヱ門 伊藤孫八 曲木甚造     
(エ)  明治13年(1880) 再施主名を刻む  三代野久造     
※ 基壇は笏谷石2段積
(ア) 前面 上壇 三界萬霊 導師静誉上人銘有       
(イ) 右側 上壇 享保16年辛亥8月24日、 願主 清誉順應比丘   
(ウ) 左側 上壇 明治10年 明治13年 再施主銘     
(エ) 左側 下壇 享保年 寄進者・戒名か判読できない     
(オ) 右側 下壇 享保年 上に同じ 
※ 丸彫り合掌型小地蔵坐像  延命地蔵15体
※ 立像 不動明王  1体  曙大石銘

2. 木仏関係
※ 木仏  観音立像     1体 金箔  
※ 善光寺式三尊仏 1体 制作者 田中太三郎 
※ 阿弥陀立像 1体 上品・下生の印相
※ 小型釈迦誕生仏 1体
※ 弘法大師坐像 1体
※ 三面六臂坐像 1体 明王又三宝荒神 
 
3. 軸物  南無阿弥陀仏   1点  大勧進76代  等順上人 
※ 西国三十三ヶ所 3点

4. 陶器 小仏 約800体以上 非常に珍しい 
5. 鰐口   25cm  天保12年(1841)銘   寄進者 武生蛭子町 堀川〇〇家内 
6. 堂内提灯の寄進  新在家 堀川〇〇            

【調査結果】
 この堂は、師匠で県文化財保護指導員の山本氏が逝去される数ヶ月前の平成24年5月1日に調査されている。この時、延命地蔵の前面に燭台が置かれてあったことから、「導師 静誉上人」「三界萬霊」の銘を確認していないが、今回の調査で銘を発見、確認したことにより、この堂の内容が把握できた。
深草地蔵堂内の延命地蔵菩薩に、建立年、町名、願主、導師名が陰刻されていることから、享保16年、今から約300年前に、久保町江川端に勧進僧清誉順應比丘が願主となり地蔵菩薩が建立され、この時、静誉上人を導師として迎え、開眼供養が執り行われたようである。この上人については、平成26年調査当初、不明であったが、平成28年、先に記載したように正覚寺代40代静誉上人であることが判明した。
また、明治8年の越前武生市街地地図に久保町(窪町)(現柳町)があることから、江川端に地蔵堂が建立されていたものを、その後、深草の地(清水畑)龍泉寺の所有地に移動し、深草地蔵堂として建立されたと考えられる。移動年について、鰐口に年代 天保12年(1841)、町名蛭子町の銘があることから、この頃、深草地蔵堂はすでに建立されていたことになる。しかし鰐口の寄進者の町名が蛭子町(当時新在家)であることから、現在の鰐口は再作製されたと考えられる。明治10年、施主堀川利右ヱ門、伊藤孫八、曲木甚造の銘が基壇にあり、明治13年には、再び施主三代野久造によって修理が行われたようで、この地蔵堂は町民により守られてきた。地蔵菩薩が建立された当時を前後すると、災害が頻繁に起きている。大火、飢饉、堤防の整備不備は川の氾濫を招き、田畑、市井の人びとを苦しめていた。そんな犠牲者の供養をするためか、堂内には延命地蔵を囲むように800体以上の小さな地蔵菩薩が安置されている、その背面には、戒名、俗名、願主が記入され、この堂が庶民の信仰の対象とされてきたことがわかる。
越前市への南入口、南1丁目には天保15甲辰年(1845)に建立された飢饉供養題目塔があり、北端北府町にも天保6乙未年(1835)の天保飢饉供養題目塔が残されているが、深草地蔵堂のように、小さな地蔵を納め 個人を供養しているものは市内には残されていない。また、三宝荒神坐像は、越前市では拝することがなく、武生大火を証明するなど、当時を偲ぶ歴史的資料として保存を願いたい。
(以上資料として写真添付)

【今後の課題】
1、約800体に及ぶ供養地蔵は、越前の土かセトモノで造られているのか?030.jpg
2、阿弥陀如来像の鑑定 
037.jpg              
3、鰐口の銘、天保時代、蛭子町という町名があったのか?
4、三宝荒神の後背は火事で焼けているのではないか                                                                                           
                                味真野歴史を学ぶ講座
                                                                                       報告  おおうら
                              
                              掲載文書・写真 無断転載を禁ず
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2017年02月10日

越前万歳考A 演目「おはや・良作」と念仏行者無智光導


 越前万歳の歌詞には、新春を祝って繁栄を願う「祝儀,縁起もの」のほかに「囃子もの」「世話もの」「道中もの」「町もの」「軍記もの」など60曲が残されている。そのなかで「おはや・良作」は世話ものにはいる、江戸時代の実話悲恋ものがたりをもとに作られている。

 金沢城下を舞台に、加賀藩家臣.安達弥兵衛のニ男良作と同家の下女であった金沢犀川商家、秋元屋平助の後妻そとの娘・はや十六歳は相思相愛の仲となり親の知るところとなった。しかし藩士の息子と商家の娘、この時代に身分違いの恋愛は許されず、良作は、家来の松原八右衛門を連れて、親に背き名も捨て財産もすて、夫婦約束の証文を身につけ文化五年(一八〇八)五月四日、金沢城下を離れ恋の逃避行に及んだ。しかし、坂井市長畑まで早籠を走らせ、二人の後を追ってきた母・そよが、良作の説得にも応じず、はやを強引に連れ戻そうとしたため、そとを斬ってしまった。その場で、良作はこれまでと覚悟を決め、心中を決意して、事の顛末、わび遺言状をしたため、父に届けるように家来の八右衛門に託した。そして「はや」と共に夫婦として、城下に戻れる事を願う文章をしたため心中を遂げた。時、文化五年五月六日、城を出て二日目のことであった。そして、忠義な八右衛門も又、良作の願いに反し、自らの命を断った。

元禄十六年(一七〇三)鯖江吉江藩の武士の子・近松門衛門は大阪堂島新地天満屋の遊女はつと、内本町醤油商平野屋の手代徳兵の悲恋物語を人形浄瑠璃『曽根崎心中』として発表した。最後の道行の段は「未来成仏うたがいなき 恋の手本となりにけり」と来世で結ばれるという日本人の情緒的感情で結ぶ。この演目を皮切りに「心中もの」がブームとなり、文楽、歌舞伎の演目として採り上げられ、享保五年(一七二〇)に発表した「心中天の網島」は門左衛門の最高傑作となった。しかし、来世で二人が結ばれるという心中事件が多くなり、江戸幕府は亨保八年(一七二三)上演や執筆を禁止、心中を企てたものには重い罰が課せられた。
 「おはや・良作」もまた、自由な恋愛が許されない封建的な社会のなかで、はかなく散った恋は、近松文学作品と重なり、庶民の共感を呼び語り継がれてきた。時代を経て悲劇的な出来事も、越前万歳の演目として大切に取り上げられ継承されている。
万歳の特色を生かし、「徳若に御万歳」で始まり、金沢を出発、北陸道を南下して野々市~大聖寺~細呂木〜金津を通り最終地点福井松本までの地名、名所、旧跡が盛り込まれ、軽妙なタッチで演じられ悲想感はない。最後の句は縁起・祝儀を起源とする「祝い数えて舞い納む」で結ぶ。「おはや・良作」の関係資料が坂井市御油田の演仙寺に残されている。その文字は達筆で、教養のある人物であったとみえる。時代に翻弄され二人の思いは成就しなかったが、二百年以上すぎた今も、越前万歳のなかで二人は生きつづけている。まさに門左衛門の「未来成仏うたがいなき 恋の手本となりにける」である。

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おはや・良作の供養塔と供養地蔵堂

坂井市長畑、旧北陸道に面した一里塚があつた場所に、道を挟み供養塔と地蔵堂が建立されている。地蔵堂には、五体の地蔵が収められている。中央には丸彫り立像、足元には小さな地蔵四体が安置されている。地蔵には「俗名為了作」「俗名為早」の名が銘刻され、背面には文久元年辛酉冬 ナムアミダ仏の文字が見える。
道路向かい側には、おはや・良作の勿谷石製の供養塔が、建立されている。塔身正面の丸い特徴のある「南無阿彌陀佛」の文字と右側面「志ゝてのち わがみにそゆる たからにハ なみ阿みだぶに 志くものハなし」の歌は、大聖寺藩江沼郡那谷町、那谷寺の前にあった浄土宗三光院・念仏行者 無智光導が二人を憐れみ捧げたものである。現在寺は、那谷寺参道に新しく建て替えられ、無住であるが、大きな透明なガラス戸越に仏さまを拝むことができる。
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光導は、享和二年(一八〇二)石川県江沼郡潮津村宇野川(現在の加賀市野田町)農家の次男として生まれた。文政三年ごろ母親の死を期に出家、大聖寺鈇砲町松縁寺の徒弟となる。その後、京都知恩院にて修行。文政十二、三年の頃には京から戻り、舟見山麓荒谷の鶴ヶ谷近くの岩窟に入り八、九年修行を行い、天保十年(一八三九)三光院に住持する。北陸三県で浄土宗の布教活動に尽力、歌を詠むことを好み、温厚な人柄は良寛さんに似ていた。そんな心優しい光導は心痛め、県境を越え「おはや、良作」の供養のため坂井町長畑へと足を運んだ。
光導の住む江沼郡は、寛永六年(一六三九)加賀藩三代藩主利常が隠居の際、三男利治に大聖寺七万石を与え立藩、強固な城下町を築き、藩の施策として絵付の美しい九谷焼きを奨励した。明治四年廃藩置県までの二三〇年間大聖寺藩は栄えた。江戸時代、野大坪万歳は毎年元旦には金沢や大聖寺の各藩に招かれ、城の大手門は万歳によって開かれ、町並みの玄間先で新年を寿ぐ光景は、正 
月の風物詩となっていた。特に金沢では、万歳師の宿には前田家の家紋「剣梅鉢」をつけた高張り提灯を立てることを許され厚遇された。
加賀万歳は、越前万歳を受継いで文化・文政時代(江戸後期)に起こった。時を同じくして「おはや・良作事件」が起きたのもこの頃である。おはや・良作の地蔵堂・供養塔は、越前万歳と加賀金沢・大聖寺とのつながりを示す歴史の証として残されている。
 
右側面 「志(し)ヽてのち  わがみにそゆる  たからにハ 
                なむ阿みだぶに  志(し)くものハなし」
善導大師                
正面    南無阿弥陀佛     無智 光導  花押 心
                    
左側        天保十ニ年辛丑年三月吉日
                     念仏講中
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 「寿ぎの祝言」を今日、聞くことは少ないが、新年、味真野商工会二階で披露される越前万歳は、新年を迎えるにふさわしく、見る人の心を温かくしてくれる。
最近の創作演目「越前名所づくし」は、1500年の歴史ある越前市の名所、旧跡を訪ね観光して一巡する。現代にふさわしく高速道路、ハイテク産業まで織り込まれ、身近に感じられ面白い。一つの演目を演ずるための言葉数の多さに驚き、そして記憶力に圧倒される。「この年で楽しみがあることはありがたいことです」元旦、八十歳を超えた才蔵さんの司会の言葉は「越前万歳」にかける喜び、情熱、魅力、すべてが込められていた。全国の三大万歳の一つに数えられ、国の重要無形民俗文化財に指定されている。味真野には宝のお山がたくさんある。

参考資料 
「味真野歴史を学ぶ講座」越前万歳歌詞について
『坂井郡誌』

                                                                              
                                無断転用を禁ずる
posted by 和姫 at 00:30| Comment(0) | 伝統行事

2016年06月11日

越前万歳考 @ 越前万歳と前田利家公

越前万歳と前田利家公のつながり
元旦、味真野の里は新春を寿ぐ、軽妙な太夫と才蔵の掛け合い、シャシャシャ・・・と擦る、すり太鼓の音「徳若に御万歳と〜やかた栄えて申せん申せば、天から宝が降り下りや」お家の繁栄を願うお家万歳で一年がスタートする。越前万歳の発祥は古く、継体天皇が味真野に住んでいた男大迹皇子のころの伝承や、鎌倉時代、源頼朝の御殿に招かれ、万歳を舞ったことが、越前万歳の発祥であるという諸説があるが定かでない。
天正三年(一五七五)織田信長は一揆衆を全滅させ、越前国を配下に収めると、柴田勝家を越前北の庄城に置き八郡を与えた。その見張役として府中三人衆を入府させ、佐々成政には小丸城を、不破光治には龍門寺城を、尾張国荒子出身の前田利家には府中城が与えられた。府中三人衆が連名で発した案堵状(「大滝神社文書」)にみる序列では、不破河内守光治が上位で、佐々内蔵助、前田又左衛門尉利家とつづく。『北日野古文書撰』「式内帆山神社 事由 天正四年丙子二月 当国北庄様ヨリ当社御尋ニ付当御領主 府中龍門寺御城代 佐々内蔵助様江 村方ヨリ書上」の文中には、龍門寺城は、不破光治の居城であったものが、お尋ねの件の御城代は成政であり、当時三人の居城はまだ確定していないようである。
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                [帆山神社」

天正八年(一五八〇)信長は、加賀・越中の一向一揆を平定すると、翌年天正九年(一五八一)、成政は越中国に移封し、利家には能登二十三万石が与えられ、「七尾宝円寺(後に母の菩提所長齢寺)」「小丸山城」の建設をはじめた。この時、成政入府から六年で未完成のまま廃城となった「越前小丸城」の資材を当時運輸の手段であった川船で運びだされ「小丸山城」が築城されたという。   今立郡真柄村は利家の支配地で、昭和七年、小丸城の西北隅から出土した文字瓦には「五月廿四日 一揆がおこり 前田又左衛門尉殿は一揆千人ばかりを生け捕りにし・・・」非情な成販をした利家の名がみえる。また、佐々成政は今立郡大滝村、岩本村など小丸城周辺の五箇を支配、この時、紙座を保護する証状を出し、粟田部付近の検地をお行っているなど、小丸城に成政と利家は同住していた可能性は高い。身近な城に野大坪村の百姓さん達が、年頭の行事や祝事に小丸城へ出向き万歳を披露したことが、前田利家との関係を深めていったのではないだろうか。
更に、天正十一年(一五八三)利家に加賀が与えられ「金沢宝円寺」を建立すると、利家の菩提寺「越前高瀬宝円寺」、同郷尾張荒子出身の住職・大透圭徐禅師を開山に迎えた。その後、大徹の弟子象山徐芸禅師が二世を継ぎ、加賀百万石の城下町づくりの一助を担い尽力した。越前の文化、芸能・経済・産業は越前の影響を大きく受けることとなった。

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            「前田利家菩提寺 越前市高瀬宝円寺山門」
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 越前高瀬宝円寺
  「前田利家の父利昌 戒名休岳の僧形石像と母戒名長齢院妙久大姉の宝筐印塔」
   宝筐印塔は荘厳な越前式で、天正8年11月24日の銘がある。

参考資料
「味真野歴史を学ぶ講座」味真野地区の歴史を考える 小丸城と文字瓦 
『福井県史』通史編3 近世
posted by 和姫 at 22:25| Comment(0) | 伝統行事

2016年06月10日

旧武生郵便局舎門柱の幸せの鳩

越前市の中心地、広小路通りに面して
大正3年10月、武生郵便局舎として新築された
木造二階建の、しょう洒な洋館風建物が残されている
昭和4年までの15年間、郵便と電信・電話業務を取り扱っていた。
現在越前市の越前府中まちなか博物館に指定されている
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この建物の門柱が残されている
勿谷石製で、文字の書かれていた部分は剥離が激しく
読み取れないが、左右には「鳩」のデザインが彫られ
当時の名残を残している。
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鳩は幸せを運ぶ郵便物の象徴として描かれ
単独で武生の郵便局のシンボルマークとして取り扱われたのだろうか
〒マークと共に「鳩」が再び郵便局のイメージマスコツトとして
登場してはどうだろうか、かわいい鳩を見ていてそう感じた



posted by 和姫 at 22:54| Comment(0) | 歴史的遺産

2015年11月10日

勝載山永厳寺 晋山結制式


越前市を出るころ降っていた雨も、トンネルを抜け敦賀に近づく頃には
雨も小ぶりになっていた、木の芽峠をさかいに
嶺北と嶺南の天気は違っている。
この分なら稚児行列の出る時間には雨も止みそうだ。
敦賀市 永厳寺の新しく住職となられる、方丈さまの晋山結制式に
出席するため、稚児行列出立する7時半に現地到着
よかった雨は止んでいました
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晋山式、大本山永平寺御専使による任命授与、お祝いの言葉と続く
その後、首座法戦式、この式では、仏法を説くことを許された首座が
住職に代わり、大衆の前で問答するもので、堂内あちこち
からの僧の問いかけに、迫力ある声が響き渡り、首座の力量が試されました
厳粛な中にも、華やかな力強さを感じ、参列者の私たちも感動一杯でした
寺を後世に残し、人を導くことの重責を担う 
新命方丈さまの門出にふさわしい式典でした
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お礼のご挨拶をされる新命方丈さま
着用されている糞掃衣は、私たちが縫わせていただいたものです
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posted by 和姫 at 00:39| Comment(0) | 歴女日記

2015年11月01日

越前万歳「お早良作」の供養塔の謎が解けました

越前万歳題目「お早と良作」の供養塔のある
坂井市長畑へ行ってきました
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実話、今から約200年前の文化5年、加賀大聖寺藩の武士と町人の娘の
悲恋物語。この地で命を散った二人の心情を憐れみ、
旧北陸道に面した一角に、文久元年(1868)地蔵堂が建立され
道を挟みお堂の向い側には、地蔵堂より約30年前、天保12年(1841)辛丑年3月
勿谷石の供養塔が建立されている。柔らかい勿谷石のこと基礎部分が
ひび割れし、正面の文字もうすくなりつつある。
歴史的資産は、屋根などつけて保存をお願いしたいです
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この供養塔の「南無阿弥陀佛」特徴のある丸みを帯びた文字と花押から
念仏行者、浄土宗の無智光導と認められる
側面右側には、善導大師の教えか、光導自身が詠んだものか
「志ゝてのち わがみに そゆるたからにハ なむ阿みだぶに 志くものハなし」の
文字が刻まれている
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この地にきて、地蔵堂、供養塔が今も、近隣の人達に守られ、
道行く人たちの安全を守っている。2人は幸せにいてくれるね
そんなあたたかさが感じとれた

この地に、光導行者がなぜ供養塔を建立したのか、その謎が解けました
次回の投稿をお楽しみに
posted by 和姫 at 23:53| Comment(0) | 史蹟・神社 仏閣

2015年05月30日

板橋禅師さまお誕生日おめでとうございます

瑩山禅師お誕生の地、越前に御誕生寺が建立され
落慶法要が執り行われたのは、平成21年6月7日、
今年で6年目を迎える
開山忌と板橋禅師のお誕生日をお祝いした「誕生祭」がおこなわれました。

御誕生寺は、日野山を背景に、溢れるばかりの新緑が、
訪れる人達の心を癒してくれます

世間では、寺を訪れる人達が少なく、寺の運営を危ぶむ
声も聞こえるが、御誕生寺は違う、平日でも多くの参拝者がおとずれ
境内を散策したり、猫と遊んだりと人さまざまだが、なぜか人はうろうろしている
今では、境内にテントが張られ、椅子が置かれ多くの人たちの憩い場所となっている。
中高年より若い人の参拝者が多いのも他所では見られないことである

板橋禅師さまの、人の心を癒してくれる人間的魅力に、
お会いできるのも参拝することの楽しみでもある

お元気で89歳のお誕生日を迎えられました。
穏やかなその御姿は、ますます禅師さまが仏さまに見え
手を合わせずにはいられない尊い存在になられてきました
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禅師さまが総持寺貫首職まで辞され、取組んでこられた
市民に開かれた寺院づくり、
その思いを、副住職が受け継がれ、着々と進行されていますが
中年の私としては、寺として人を導き、育て、相談できるところ
気がるに立ち寄れる場所、人の心に寄り添える寺であってほしいと願っています


posted by 和姫 at 01:09| Comment(0) | 史蹟・神社 仏閣